あまり読書に気持ちが乗らず、グダグダとしているのですが、それでも楽しく読むことが出来ました。
想定されている読者は法学を志す学生が中心だと思われますが、全然、門外漢で法学に興味のない自分のような人間でも楽しく読むことが出来ました。
いや、むしろ、国語の先生こそ読んだほうが楽しいかもしれない。「文章を書く」ことの指導について、授業づくりにヒントになることがたくさんあります。
当たり前が当たり前に書かれることのよさ
法学についての内容については、門外漢の自分にはその面白さを伝えることも難しいので今回は触れない。もっと詳しい人がちゃんと紹介してくれることだろう。自分の専門に置き換えて読むことは「はじめに」で本書も推奨していますし。
最初に書いた通り、この本に自分が感じた面白さは「文章を書く」ことにまつわる色々な作業……つまりは、知的生産のための技術についてだ。
#カフェパウゼで法学を を読んでいますが、やっぱり日常的に文章を書いている人のノウハウは勉強になるなぁ。自分の書くことにももちろんだけど、生徒にミニ・レッスンなどでどんなことを伝えてあげれば、ちゃんと先の学びにつながるのかというヒントが多い。「高大接続」という観点でのヒントがある。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年7月10日
#カフェパウゼで法学を この本の書くことの話でとてもよいなぁと思うのが、書くことの過程が「行ったり来たり」するものだという当たり前のことを何度も繰り返し説明していることだと思うのです。この「行ったり来たり」(先に挙げた『ライティングの高大接続』だと「再帰性」と言っている)が中高で
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年7月10日
ほとんど出来ていない現状があるし、「行ったり来たり」させる時間を取ろうとする人は決して多くないと思うのです。やりっぱなし返されっぱなしでおしまい。だから、べつに読み手を意識して何度も行ったり来たりもしないし、多少変でも終わらせたい一心で無視してしまうよなぁと思う。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年7月10日
物を書く人の立場からすれば自明すぎて当たり前のことなんだけど、書き物になれない人や実際の教育現場で起こっていることの傾向からすれば、明示的に大切なんだよと語りかけてくれることのありがたさったらとても、大きい。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年7月10日
前にもつぶやきましたが、日常的に「物を書く」ことをしている人が「当たり前」にしていることが、言語化されて示されたということが、自分自身、生徒に色々な「書くこと」を指導していく立場にあるので、勉強になる点がたくさんあるのです。
特に大切だと思う点は2点。
上のツイートでも書いているけど「再帰性」についての話。つまり「行ったり来たり」しながら「書くこと」が重要である、むしろそうすることなしによい文章は書けないのだとはっきりと分かる説明がされている。国語教育の中で行ったり来たりが足りないという話は、以下の本を過去に紹介している。
ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ
- 作者: 渡辺哲司,島田康行
- 出版社/メーカー: ひつじ書房
- 発売日: 2017/06/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (3件) を見る
自分がもっとも強く共感したのが「4.再帰的な文章作成」の指導不足についてだ。「再帰的な文章作成」とは、本書の言葉を借りるなら「作文の各段階で往来(行きつ戻りつ)する技術あるいは習慣のことだ」(P.57)という。
【書評】思い込みの「作文指導」から高校国語が脱却するために - ならずものになろう
そのために「ピア・レビュー」を推奨していることや、時間の管理の方法やモチベーション管理の細かいライフハックも紹介しているのも面白いところです。
もちろん、ライフハックばかりで中身がスカスカになっているような本とは違う。例えば以下のような記述は、ちゃんと書くことに向き合っている人にしか言えない言葉と思うのです。
目的がハッキリしないのであれば、「問題意識を仮設定」することを勧める。いったん仮設定した目的で調べてみて、調べるうちにもっと面白い課題が見つかるのであれば、それはそれでまた作戦を立て直せばよい(p83-84)
当たり前のことでしょう?でも、これは割と文章を書くときに肚を決めて「ちゃんと書こう」と思わないとできない作業だ。そして身も蓋もないけど、逃げ道のない苦しい作業だ。目的を探すことも苦しい、調べても調べてもネタが見つからないことも苦しい、せっかく「仮」でも決めた目標を捨てて新しく考え直すのも苦しい、そもそも文章を書くことだって苦しい……でも、そうやって訓練していかないとどうにもならない点があるのですよね。
もう一つ、自分が大切だと思う点は「自分の専門」を持つことの意味を説いていることだ。
「すでにわかっていることを適切に示す」というのは当たり前のことに聞こえるかもしれないけれども、実際はとても技量のある仕事だ。現実の問題には見出しなんてついてないから、自分で何が問題なのかを突き止めて、「専門家の間でな常識的にだけれども、素人には見えない」点を指摘しなければならない。(p.232)
上の引用部は法律関係の「実務家」の役割の説明であるけど、何も法律に限った話ではないだろう。(まあ……教員の場合、「自分で何が問題なのかを突き止め」ということと、「「専門家の間でな常識的にだけれども、素人には見えない」点を指摘」ということの訓練が足りていないと感じている。だからこそ、周りから理解を得て、チームとして成果を得ることが苦手な教員が多いのだと思うのです。)
逆に言えば、このような「専門性」を身につけるためには、大学での勉強の仕方、学び方……つまりは、「研究」の入り口であり、すべての「知的生産」に繋がる基礎的な技術を身につけることに必然性がある。
なぜ、資料を集められなければならないのか、なぜ分かりやすい文章を書けるようになる必要があるのか、なぜ論理的に考えられるようにならなければならないのか……すべては、専門家として「現実」の問題を伝えて、対処していくためである。
対話で学ぶということ
この本のサブタイトルに「対話で見つける」という言葉が入っている。もちろん、教育界隈の人々であれば、「対話」という言葉が学習指導要領のキーワードの一つになっている。
もちろん、教育界隈の「対話的な学び」を意識したわけではないだろうけど、結果的に重なること、参考になることは数多くある。
本書の「対話」は、本文が「対話」で書かれていること、ピア・レビューや自主ゼミなど仲間と学ぶことの重要性を説いていることから来ているのだろう。もしかすると、「問い」を持つということが、先行研究や自分自身との「対話」になっているのだということを指しているのかもしれない。
教育界隈でも「対話的」については「ただ話し合うこと」だと単純化して考えているのは現場の教員だけ(だからなお質が悪いのだけど…)であり、他者との対話だけではなく、非常に複層的なものである。詳しくは『日本語学』Vol.37-6の藤森裕治先生の論を参照すると分かりやすい。
話を戻そう。
「対話」ということが「学び」に必然的に繋がるのだということは本書を読むと感覚的に理解できる。別に、アクティブラーニングだとか「主体的・対話的で深い学び」という話で出てきているのではなくて、「学び」をしっかりと進めようとすると、「対話」が出てきたということが大切なのだと思うのです。