ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

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【書評】「研究する」ことと学校の文化を考える

Isaac Newton School #112

繋がっているようで繋がっていない?繋がっていないようで繋がっている?

今日の話は「教員研修」の話です。

そう、昨日の話との繋がりが気になるのです。

www.s-locarno.com

教員自身の学ぼうとする力

本書の第一章で紹介されるように、日本の「授業研究」の伝統と蓄積は、かなり大きな財産を現在に残してくれているのである。

もちろん、非常に有名な神がかりな名人のことだけを指すのではなく、普通の教員が、学校の内外で「教育をよくしたい」という思いに支えられて、集い、意見を述べ合い、改善のための努力を続けるという慣例、文化のことである。

大なり小なりその活動の規模も違えば、「研修」に対するモチベーションも全然人によって違うということは認めざるを得ないところではあるが、それでも、これまで、教員の「学ぼうとする」姿勢が生み出してきたものは少なからずあり、今、何気なく共有されている言葉にその成果が残っている場合だってある。

なかなか苦境に立たされている現場であるものの、その成果を知ることは必要であろう。

しかし、いよいよ「学校現場の多忙化」や「年齢構成のいびつさ」などの原因によって、その教員が持ってきたはずの「学び合う文化」すらも苦境に立たされつつあることも事実である。自分の勤務校を振り返ったときに、教員研修が機能し、授業について切磋琢磨するという文化があるとは言い難く、忙しさのために目の前の仕事をこなすことのほうにばかり意識が行ってしまっている*1。なかなか「授業」について徹底的に議論するという土壌を持つ学校は多くないのではないかとも思う。

そんな半径二メートルばかりを見ていると「教員の学び合う文化は遠くなりにけり…」とも感じるのであるが、そんなこともなく「今でも工夫して実践している」と言える事例は多くある。

そのいくつかの例が示されているのが本書だ。

教員の学ぶ場の多様さ

本書の章立ては以下の通り。

第1章 日本における教師の実践研究の文化―「研究する」教師たち

第2章 校内研修をベースにした研究するコミュニティの構築

第3章 学校を越えたつながりの中で研究する教師たち

第4章 研究する教師を支える組織やシステム

第1章は「概説」であり、授業研究の実際についての史的な記述である。

第2章以降が、事例の紹介となっているのである。この章立てからわかるように教員の学ぶ場所は決して単一なものではないのである。普段、学校にいると学年などに縛られて忘れがちであるけど。

つまり、「校内」の教科・学年を超えた交流、学びもあれば、「校外」での教育サークルでの勉強という方法もある。そして、もっと大きな視点で学ぶ教員を支えようとする制度を作る人間もいるのである。

こうして、事例を一つ一つ見ていくと感じるのだけど、本当に、教員自身が「一歩踏み出す」ことで教育についてきちんと考えようとする場所はかなり多様に用意されているのだということ。

ただ、どの事例を見ていてもそうだが、その学びの場に「当事者」として参加していくときにこそ、大きな成果を得られているように見えるが、その「当事者」としての意識を持てるかどうかが本当に難しい。

運営する側の工夫ともいえるかもしれないが、そもそも「何について話し合うべきなのだろう」という、その問題意識をうまく集まったメンバーの中で醸成していくことは、一朝一夕に、目先の工夫だけでできることではない。

安易に「明日の授業から使えること」に陥ることで突き当たる壁についても本書のいくつかの事例では紹介されていたが、「明日から使えない」ことでも本質的に必要なことなのだと我慢強く掘り下げていく気持ちを生み出せるかどうか……。その境地にたどり着くまでのトライアンドエラーこそが学びそのものかもしれない。本書の事例を形だけ真似ても、おそらくその成果を得ることは難しいだろう。

少しを踏み出せば、学ぶこと、自分が助かる場、理解される場……そのようなものはたくさんある。しかし、いつでも踏み出さなければできないとしたら、それはやはり息苦しいし、この多忙感のある現場において全員ができることではなくなってしまう。

どうするべきかは簡単には言い難いところですが、本書のような事例を見てもらい、少しでも自分の教育観を共有していくことに価値があると感じられる人が増えれば変わるのでしょうか…?

まあ、ブログを書くのがラクでいいですよ。たまに意見をいただけます。

人材開発と教員研修の違いは?

少しだけ、企業と教育の研修の違いについて述べておきましょう。もちろん、簡単に述べられるものではないので、自分の感想だけ。

第一に、企業の研修は昨日も触れたとおり「成果を出す」ということが絶対の条件ですが、教育の場合「成果」自体を測ることが難しいので、企業ほど研修の成果を求められる印象はありません。ただ、そのせいで形骸化したレポートなどが量産される面もあるわけでしょうけど…。長期的に見て、きちんと教員自身の手札として生きてくれば良いという面もあり、すぐに仕事に活かすばかりではない……場合によっては、同じ単元をするのが6年後ということもあるわけですし。

もちろん、「成果」と呼ばれなくても、ある程度の手応えがなければ、研修や研究会自体に関わろうとするインセンティブがなくなってしまいますから、この多忙感の中で自己研鑽しようとする人の心を挫きかねない。

第二に、研修の成果は教員自身に直接的に返って来るものではないということだ。ある意味で、企業の研修は自身のスキルアップが直接的に給与などに反映される面もあるが、教員の場合はちょっとしたスキルアップで給与が上がることがないどころか、明日の授業がすぐさま楽になることだって難しい場合のほうが多い。

授業研究として、「終わった」授業について様々な意見交流をすることになるが、それを活かせる機会は「明日からすぐに」というものは多くはない。課題としてずっとモヤモヤと心に抱えて、やっと言語化出来たところから改善が始まって、ようやく何となく形として出せるようになって……という面がある。

しかし、違いばかりでなく、共通する面も非常に多い。

校内研修や地域の支援のしくみを考えている人の報告をみると笑ってしまうくらい、企業の研修の工夫で悩んでいることと重なることがある。

結局、不当に学校と企業を比較する必要はないのだろうと思う。

学ぶのは何のためか

こうして教員の研修について考えてみると、「学ぶ」ことで自分に返ってくるものは決して多くないとつくづく思う。言い方は悪いが、与えられた研修を黙ってやりすごすだけで、何も時間も手間もかけないでも教員はできる。

色々と「学んだ」ところで、明日の授業から何かが爆発的に変わるものでもないし、限られた時間と資金でできる「研究」だってやはりたかが知れるのである。

では、なぜ学ぶのか。

それは、「誰かの助けになるため」であり、「誰かに救ってもらうため」なのかと感じる。

自分が学んでおくことで、誰かが困っているときに、自分の気付きで少しでも解決に近づけるかもしれないし、自分が悩んでいるときに学ぼうとしている人と繋がりがあれば、救われることがあるかもしれない。

結局、教員の個の力の問題を超えてくるのではないか。個の力の弱い教員だからこそ、教員集団としての力が、自己研鑽で保たれることで、やっと何か、救われることが出てくるのではないだろうか。

*1:不思議なことに暇そうな人は暇そのものなのだけど。

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