高校三年生の2学期がスタートしました。土曜日に授業がある学校なので。
始業式の日くらい、早く返して上げても良いのに……式の後に授業が普通にあるという。
思い通りにならないことに耐える
受験生の夏は思い通りに勉強できるほど甘くない。ほとんどの生徒は、思ったよりも夏休みが早く終わってしまったことに、焦りを感じているし、目標に対して弱気になってきてしまうのである。
最近、随分と日が短くなりましたが、その日の短さにも焦りを覚え始めて……まあ、客観的に見れば、非常に受験生らしい、受験生の行動である。
自分のやりたいこと、自分の目指すものに対して、自分自身のことでさえ思い通りにならないのだということを身をもって学んでいると言える。非常に苦しい営みであるけど、何か入試で学ぶことがあるとすれば、教科の知識と言うよりも、むしろこうして自分の思い通りにならないことの苦しさとどう折り合いをつけていくのかということなのかもしれない。
でも、大人だから知っている。この先、彼らはもっと思い通りにならないことに直面する。
自分の勉強だってそうだけど、それぞれがそれぞれにまったく異なる受験をする。だから、合格も不合格も悲喜こもごもに起こってくるし、自分だけが上手くいかないという思いをさせられることだって少なからず起こる。
仲が良いと思っていた友達だって、自分にとってねたましい存在、鬱陶しい存在に転んでしまう可能性だってある。
結局、そうやって色々と自分の日常がひっくり返されて、新しくどうやって生きていくのかということを考えていかなければいけない時期なのだ。
たかだか入試なんかのために、この高校三年間が台無しにされるのはたまったものではないが、自分自身で自分の高校三年間をきちんと前向きに、次に迎えるように終わらせられるかが大切なのだろう。自分自身のモヤモヤとした気持ちに、決着をつけられるのは自分しかいない。
卒業式までに誰も離脱が出ないことだけが、担任としての祈りである。
授業はもはやカウントダウン
授業も早いものでそろそろゴールが見えてきた感じである。一年生から数えて280回くらいの授業数があったわけだけど、それも残り一割を切っている。
一回、一回の授業で成せることは大したことはないのだけど、さて、約300回をふり返ったときに、一体、彼らは何ができるようになり、何を成長し、そしてどこに向かおうとするのだろう。
このブログでもたびたび授業の様子はそれとなく記事にしているけど、ステレオタイプな国語の授業はほぼやらないでやってきた。彼らに学びの主導権を渡し続けてきた。
おそらく勤務校のどの学年よりもたくさんの文章を読み、そして比べようもなくたくさんの文章を書き、ひたすらに話すことと聞くことを繰り返して来た。思えば、一年生の頃はジグソー法など比較的、方法まで筋道を教えて指導してきたことが、今となっては授業にフラッと表れて、資料を渡したらそこから先は自分たちで課題を見つけ、論じさせるくらいに自由に、自分たちで決めて学べるようになってきた。
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はからずも、こういうことをやってきたのかなあと思う。
そうして少なくとも資料や素材をしっかりと握りしめるだけの力を持っている彼らに、最後の仕上げとして手渡すものとして、入試問題の解き方はそれほど苦労することなく手渡せそうな気がする。
色々な言語についての経験はしてきたはずだから、それぞれの入試問題で、どんな視点に立ち、どんな戦略を使えば良いか、そのコツが分かれば、きっと入試も大丈夫だろうと思う。
楽天的に書いているが、ま……個別指導で最後はのたうち回るのですが。