ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

学級とはなにかを見直すこともときには

Class

慌ただしく変わる教育であるけど、もう五年くらいは「学級」を基本とする学校の形が主流としていくのだろうと思う。

たまたま生徒の受験の課題絡みでそのような話をしていたので、いくつか思うところがあって、学級についての資料を引いてみた。まあ、例によって忙しいので流し読みしただけ。興味ある方は紹介する文献をお読みください。

今回の参考文献

家にある本を引っぱり出しただけなので、何が何でも一番よい本だということではないが参考になっている本です。

日本の学級集団と学級経営―集団の教育力を生かす学校システムの原理と展望

日本の学級集団と学級経営―集団の教育力を生かす学校システムの原理と展望

 

もう8年も前の本になってしまったので、たぶんちゃんと研究として追いかけるならもっといろいろな書籍があるはず。余裕があるときにちゃんと調べようと思う。……たぶん。

日本の学級集団の特徴

アクティブラーニングが主張され、「学びの個別化」が注目されているのが現在である。そんな時代であるので段々と学級は解体される方向性にあるように思う。学級どころか、学年という概念すら段々と怪しくなると思うが……。

個人的にはプロジェクトベース学習を期待しているので、学級の縛りが緩やかになっていくことが望ましいと思う。教員の仕事を属人的にし、協業を不可能にする原因の一面に「学級」という縛り、担任という役職があるように感じることがあるので、ますます学級が緩やかになってくれたほうがいい気がしてくる。

しかし、日本の「学級」にもよさ、強みがあるのである。それをきちんと見極めようというのが、本書の一つの課題である。

日・英米の比較を通じて

日・英米の学級を比較したとき、「機能体」と「共同体」という観点から、本書では以下のように特性をまとめている。(P.14-P.15)

  • 英米の学級集団は、学習集団としての機能体に特性が強い
  • 日本の学級集団は共同体の特性を有し、同時に学習集団としての機能体の役割も担っている

要するに、日本の学級が単なる「勉強の場所」という機能体としての役割だけを担っているのではなく、学校生活なども含めて考えなければいけない集団なのである。

この点は、古語もの社会性や心理の発達にとってはよい面もあるだろうし、もちろん最近「ブラック校則」などと呼ばれるように、あまりに「共同体」としての側面が増長し、息苦しさを感じさせる原因になっている側面は否定できないだろう。

この辺りが、日・英米の教員の役割にもつながっているという指摘もあり、おそらく、学校の「働き方改革」を考える際には、世間から「学級」という役割に期待されていることもかなり価値対立として出てくるのだろうと感じさせられる。

学習指導要領の変遷と学級への影響

本書の第三章に「日本の学級集団の特性に影響を与える学習指導要領の編成」というものがある。

これはなかなか今、読み直すのが大切な章であろう。本書が出版されたのは2010年であり、ちょうど現行の学習指導要領へと改訂されたタイミングである。

この約10年で学級がどのように変質してきたのかを捉えるのに、ちょうどよい基準点にはなるのではないか。そして、系統主義と経験主義に揺れてきた学習指導要領と、その影響を学級がどのように受けてきたのかを見直すことが、これから先の10年を予測する際の足場掛けになるのではないかと感じられる。

ちなみに、2008年の改訂では、「確かな学力」を基盤としつつ「生きる力」の理念を踏襲したものである。だからこそ「習得・活用・探究」と「思考・判断・表現」という学力の方向性が示されているのであり、「ゆとり」か「詰め込み」かという二元論の超克を目指している。

ま……結局、「探究」がスポイルされ、覚えることがゆとり世代よりも増えた「詰め込み」に振れただけのように感じられるのが、現場の教員としての実感である。

よく読むと、本書では

しだいに小・中学校の「ゆとり教育」が厳しく批判されるようになってきた。2008(平成20)年からは系統主義的な学習に主眼におかれ、「学習指導面」が強調される時期に入っていくのだろうか。(P.44)

という展望が述べられている。

残念ながら、この展望は当たっていると言えそうだ。ただ、ICT技術の伸長によって「個別化」という方向性が現実味を帯びてきたために、学級がただの「学習指導面」を強調する機能体では行き詰りそうであるという議論が最近は見えつつあるように思う。

理想の学級集団と個別化という相反

本書では量的な側面から教員が考える理想の学級集団を検討している。

とりあえず細かい議論を脇に置くとして、本書での結論をまとめると以下の通りである。

<望ましい学級集団の要素>

I 集団内の規律、共有された行動様式

II 集団内の子ども同士の良好な人間関係、役割交流だけではなく、感情交流や内面的なかかわりを含んだ親和的な人間関係

III 一人一人の子どもが学習や学級活動に意欲的に取り組もうとする意欲と行動する習慣、同時に、子ども同士で学び合う姿勢と行動する習慣

IV 集団内に、子どもたちのなかから自主的に活動しようとする意欲、行動するシステム

(P.76)

このI~IVをトータルに満たし、自治的な集団が成立しており、子どもの学力と生活満足度が高い状態を本書では理想の学級集団の状態であると仮に定義している(P.81)。

「教える・指導するのが教師の役割で、教わるのが子どもの役割だが、だからといって、指導―教わるという縦の役割が良好に成立している集団を単純によい集団と日本の教師はとらえていない」(P.76)と述べられているが、この指摘の通り、機能体と共同体の両面のバランスのよい調和を見せる集団を想定していると言えそうだ。

これは現場の感覚としても近いものがあるのではないだろうか。

話は逸れるが、上のI~IVの要素を眺めていると、「主体的・対話的で深い学び」の概念に近いものを感じられないだろうか。

さて、本書ではこのように理想の学級集団の状態を仮に定義したが、この定義のような理想の学級集団の形成を「個々の多様性」が困難にしているという指摘がされる。さらに、日本の国際化に伴って欧米型の個性が取り入れられてきたことで、一層、理想の学級集団の形成の難しさが指摘されている。

国際化が進み、欧米的な個性が取り入れられてきた現代において、日本の学校教育は子どもたちをどのような人間に育成していくのかという目標と、その教育方法のあり方を、根本から検討する時期に来ているのではないだろうか。(P.102)

はたして、「社会にひらかれた学校」という形で、一つの方向性が示され、さらにアクティブラーニングないしは「主体的・対話的で深い学び」という形で、教育方法まで示されたのは周知のとおりである。

様々な観点から読めます

この調子で書いていくときりがないのでそろそろ終わります。興味がある方は本書を手に取ってください。

本書では、「学校化する大学」という形で大学生のキャリア意識と学生生活の困難化が述べられているが、これは言うまでもなく溝上慎一先生がトランジション課題と読んでいる内容に重なっている。

大学生白書2018 ーいまの大学教育では学生を変えられないー

大学生白書2018 ーいまの大学教育では学生を変えられないー

 

また、「学級」を活かすために、どのような可能性があるのかという議論も本書では述べられている。

こうして、約10年経って、変遷の前後を見通すことで色々と感じることがあるのです。

 

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