ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

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新しい季節を思うと憂鬱になる

'turkey' vulture

休みだけど出張。今年の仕上げのための出張。

それなりに喫茶店に行ったり電車の移動中に本を読んだりと気持ちとしては余裕がある。

余裕があるから余計なことを考え始めるのである。今年が終わる。また、来年から新しい場所で新しい生徒と授業をやると思うと、憂鬱な気持ちになるのである。

慣れ親しんだクラスの授業

基本的に自分は慣れない環境で明るくコミュニケーション取れるほど根が明るくはない。こうして三年も持ち上がって慣れ親しんで授業をやっていることに慣れると四月からの授業がなかなか憂鬱である。生徒の方が卒業してしまうのだから仕方ない。

たった三年であるが、されど三年である。

自分の言葉を理解している生徒がいて、ある程度自分が把握できている生徒がいてという状態は気が楽である。ゴルディロックス教室万歳。

 

3びきのくま (世界傑作絵本シリーズ)

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安心して色々なことに挑戦できる場所というのは教員である自分にとってありがたい。生徒にとっても、授業の時に失敗しても叱責されるのではないと分かり合っている状況であるので、思い切ったことができる状況は悪いことではないと思うのである。

あぁ…甘やかされているな、自分。

ぶっつけ本番の授業

営業活動と称して、飛び込みで授業したり模擬授業したりすることもありますが、なかなか精神的にはしんどいのです。

一発勝負の授業は、なかなか受講者に対して適切な授業をすることが難しい。事前に準備するにしても限界があるし、思い通りにいかなかったときの修正の難しさに恐ろしくなる。

塾講師のころは、その意味では一発勝負は気楽だった。相手のニーズが明確であるので準備もしやすいし、その後、入塾した後も同じことを続けられるので後ろめたさもない。

でも、これが学校の営業活動となると……ニーズも多様だし、入学後に連続していかない授業をしてしまうのも何だか詐欺のようで後ろめたい。普段と同じことをやりたいと思うのだ。

そもそも、普段の授業が油断と慢心で成り立っているからなのかもしれない。お互いにわかっているつもり、お互いにやれているつもり……自分が気づかないうちに自分の授業の振り返りが出来ていないのかもしれない。

自分がやってきたこととは

四月から新しく始めなければいけない。そのことに不安を思うのである。

それは生徒の能力をゼロから指導しなおすということに対する不安ではなく、ちゃんとそれぞれのクラスに、安心・安全の文化を、クラスの土壌を作ることができるのかという不安である。

それぞれのクラスにいる生徒は、それぞれバラバラである。当然、同じパターンで済ませられるようなことはない。

少しずつ、生徒のことを知りながら、生徒の能力を保障しながら、手を変え品を変えて我慢強く作りあげていくものである。

授業に対する心構えや、身体感覚として腑に落ちて行動できるようになることが、本当にできるようになるのだろうか、そんな不安ばかり思うのである。

アクティブ・ラーニングでも言語活動の充実でも単元学習なんでもよいけど、そんななんでもかんでも丸投げでやらせて、成立する訳ないのだよ。

一つの授業が成立するようになるまでに、どこまで七転八倒しているのか。納得と安心があって、授業が原動力を得て進み始めるまで、どれだけの時間が掛かるか。

溝上慎一先生はアクティブラーニングの成立のための条件としての「身体性」を論じている。

アクティブラーニング型授業の基本形と生徒の身体性 (学びと成長の講話シリーズ)

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逆に言えば、この身体性が保障されてこなければ、授業がいつまでたっても上滑りして苦痛なものにしかならないのがよく分かるのである。

そんな苦痛にならないために、どうやってスタートを切るのか。どうすればちゃんと歩んでいけるのか。

とても気が重いのである。名人のようなテクニックは自分にはない。

今に慣れきっている。そんな自分がちゃんと新しく始められるのか、今から色々と考えていかなければいけないのだ。

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