ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

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都立南多摩中等教育学校の発表会を見学へ

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今日は時間があることを活かして遠出。

都立南多摩中等教育学校の成果発表会を見学してきました。

www.minamitamachuto-e.metro.tokyo.jp

たった半日ですが気分転換として、そして今後どうやって運営していこうかを考えるのによい時間でした。

自分たちで運営する

一番、印象的なのが発表の運営もポスターセッションの運営も、基本的に生徒が自分たちで時間になったら自主的に始めていることだ。

トラブルがあっては問題なので、教員も所々で見守っていますが、口出しすることは全くなく、子どもたちが自分たちでそれぞれの役割に取り組んでいる。

非常に地味で気づきにくいことだけど、普段から自分で考えて動くことを習慣にしていなければ、こうも恙無く動かない。普通の学校の普通の発表会の様子を見ると、教員が一番時間を気にしていて、大声を張り上げて、生徒を必死に先導して、やっとまともに形になるという……。

鶏が先か、卵が先か、という問答に似ているが、いつまでも教員が先導するからいつまで経ってもできるようにならないのか、教員が口出ししないから自分たちでやるのか……。

当然ながら放任ではない。

よくよく掲示物や展示内容を見ると、丁寧に「書き方」を指導した跡が見えるし、入学から卒業までのそれぞれの段階で、少しずつステップアップしていき、学びが蓄積されている様子が分かる。

その成果としての今日の自主的な学びの成果発表会がある。ここまで自分たちで動けるまでには相当に時間が掛かっているのだろうと思う。

「待つ」ことを随分しているのだろうと思う。自分の置かれている環境ではこの「待つ」がなかなか難しい。成果を性急に求められる中で、数値に現れない成果を我慢できるか。綱引きでやっていくのだろうと思う。

特別な学校なのか?

都立南多摩中等学校は適性検査型入試で選抜された生徒が入学してくる学校である。

だからといって、この学校の取り組みが「学力が高い生徒だから出来ること」だと切り捨てていいのだろうか。

発表の質や書ける文章の量は、当然、基礎学力によって支えられている部分はあるかもしれないが、それはある意味で表面的なことでしかないと思う。

もっと重要なことは、自分たちできちんと学びの成果を説明できることであるし、独りよがりにならない形で他者を意識した伝達が出来ていることである。自分たちの学びに自分で責任を持つ。そういう学びに向かう態度がとても大切なのではないか。

佐藤学が学びからの逃走を指摘してから20年くらい経つが、そういう学びから逃げ出す子どもとは正反対の学びに向かっていく姿に力強さを感じるのである。

「学び」から逃走する子どもたち (岩波ブックレット)

「学び」から逃走する子どもたち (岩波ブックレット)

 

学ぶ姿勢や自分の成長に自信を持つ姿は入試の選抜の成果ではないだろう。

この学校でしか出来ないことを少しずつ積み重ねてきた成果である。そして、どの学校であっても、少しずつであっても前向きに学びを重ねることはできるはずである。

自分の勤務校だって、しんどいことは多くある。悠長なことを言っていられない現実だってある。

しかし、それでも「待つ」という時間を作りたいなと思うのである。

生徒の姿は学校の顔である

当たり前のことを言うようだけど、生徒の学ぶ姿は学校の顔そのものである。

どれだけ自分の学びに自分なりに向き合えるか。

自分で学ぶことはしんどい。そのしんどさをどこまで引き受けられるかは、自分一人の資質ではなく、まさに「学校」が持っている文化に下支えされるのではないか。

「学校」が何を生徒に手渡せるのか、そういうことだと感じるのである。

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