昨日の記事にこんな反応をいただいた。
定期考査の作り方の基本はここにもう書かれていると思う。 https://t.co/mgFw42MS4M
— kikuno (@mk_kushiro) 2019年6月26日
本当、適当に書いたのにこんなお褒めの言葉いただいてしまって申し訳ないです。
せめて、罪滅ぼしに、もう少し踏み込んで書いておきます。まあ…あまり手の内を明かすと色々と問題もあるので、ぼかした言い方になってしまいますが……。
理想は「単元の開始と同時に考査はすでに出来ている」
自分ができるだけ心がけている(が、一番達成できていない)ことは、その単元の始まりの時点で考査で問うべきことが完成している(考査の問題ではない)ということだ。
つまり、単元を始める段階で、到達すべき生徒のイメージに確固たるものを持つことが出来ており、なおかつどのような問い方や答えさせ方をすれば、その成長を評価できるのかというイメージがあることである。
「指導と評価の一体化」なんて難しい言い方をするつもりはないけれども、教えていること・授業でやっていることとできるようになることがきちんと一致しているのであれば、単元が始まる段階で考査は見えているはずである。
少し、考査の話から離れるが、これは表裏一体、単元づくりの考え方とも関連する。
つまり、国語科の単元学習の比較的オーソドックスな形は、子どもの現状とつけたい力を見極めて、適切な言語活動と課題を設定し、言語活動に取り組む子どもたちを支援していくことで学力を保障していくということだと思っている*1。
このオーソドックスな単元を作るためには、かなりの資料や言語材に当たって、今の目の前の生徒を触発するようなものを見つけなければいけない。
これはこれでかなりきつくて毎度泣きながらやっていますが……結果、単元ができるまでの過程に色々な素材と授業する自分が出会っている。
だから、結果的に、授業で使わなかった素材が考査のネタとしてかなり有効に活用できる場合が多いのである。
イメージとしては「単元の主たる言語材」が決まってくると、選ばなかった素材が「主たる言語材との関連で扱わせたい素材」として見えてくる。だから、それらが考査で生徒に投げかける素材となるのである。
理想は理想。現実は甘くなく……
理想論は理想論である。
そんなに簡単に授業始められないし、単元を狙っても全然狙いとは異なる方向に転がり出すことも多いし……単元の初めに企図した考査の方針で上手く行かないだろうなと方向転換させられることも少なくない。というより、生徒の活動の実態を見て、より授業の実態に即して一番よい素材選びを繰り返すのは、生徒の力を伸ばすためには必要なことである。
考査の問題には生徒は授業以上に必死になる(笑)。だからこそ、きちんと授業の積み重ねがあれば、ハッと何かに気づくような問題を投げかけたいと思うのである。
単元づくりが甘いのがすべて悪いのだけど、なかなか始めたときのイメージだけで考査が完結するとはなりにくい。だから、毎回、考査の提出日ギリギリまで粘って、何を出すべきか、どういう風に問うべきかを悩むのである。
教科書の文章をなぞるか、初見か……
考査の問題は教科書の文章であるべきか、初見であるべきか。
こればかりは学校の方針とも関係するので独断では決めにくいだろう。
しかし、個人的な好みを言えば、そして実際に自分の裁量で出来る部分については、すべて初見のオリジナルの問題を作るべきだろうと思っている。
これは毎回、血反吐を吐くような苦労をする羽目になるので、他人にはあまり勧めにくい。しかし、何のために授業をやっているのかと考えると「授業でやったことを能力として身につけ、未知の状況にもその能力を発揮できる」ことが絶対に必要であろう。
少なくとも先生の解説をノートに写して、それを覚えて再生すればいいという考査では、一体、自分で未知の状況に対して、学校を卒業した後のそれぞれの場所で、どんなことができるようになるというのかという疑問がある。もちろん、基本的な「型」の習得や知識の理解のために、暗記型の勉強と再生することのテストの果たす役割は小さくないのですが、そればかりに終始していてはいけませんよね。
教科書で扱った同じ文章でも、新しい可能性や新しい挑戦を考査に出すことはできます……が、個人的な好みとして、色々な可能性に挑戦できるなら出し惜しみせず、全部授業でやってしまいたい(笑)。
だから、必然的に初見の問題をやらせることになっています。
設問の置き方
50分がなかなか高校の国語の考査としては厳しい。
考えてみて欲しい。センター試験の現代文の解答時間はおおよそ40分超えるくらいである。あれは全てマークシートだからいいけど、考査できちんと「形成的な」評価を生徒にするためには、どうしてもマグレ当たりを排除して生徒の能力がはっきりと表れる「論述」を課さざる得ない。
そうなると、もう初見の文章も読んで、論述も書いて……なんてことになるとセンター試験よりも時間が厳しい。あまりに時間を厳しくすると、何をやっているのか生徒が自覚できないうちに考査が終わってしまう。
かといって、設問の数を減らすと平均点の調整が難しい。高校の場合、シビアに赤点はまずいのでそのあたりの事情もごにょごにょ……。
だから、ある程度の問題数を確保し、一題当たりの配点を下げつつ、時間内に無理なく解き終わる問題を出さないといけない。この辺りは……もう、毎回、本当、頭が痛い。
これも個人的な趣味であるが、意味のない空欄補充(例えば選択肢の穴埋め)や指示語の同定も出したくない。空欄補充で接続詞を埋めさせるなら、その後の問題でその接続関係を意識することでつながるような設問を置きたいし、指示語を問うならその指示語が意味段落でどんな役割を持つのか意識させるような答えさせ方をしたい。
要するにただの「点取り問題」なんて置きたくない(笑)。結果的に簡単に解けても、その問題を解くことで読解に必然的に役に立つ……という置き方をしたい。
センター試験や国公立の設問の作り方はやはり非常によくできている。無駄に見えて読むときに必然的に無意識・意識的問わずに処理せざる得ない箇所であるし、それでいて文章の理解のために重複もない。
無駄に繰り返し同じようなことを答えさせるようなことはやめたいものです。
設問すべての狙いは説明できる
そんなことを意識していると必然的に、すべての設問について出題の意図が説明できる。ある問いがどの問いと関連しているのか、ある問いを読むときにどこまで読まなければいけないのか……そういうことをすべて解説で伝えられるくらいには問題を作っている。
まさに「考査は形成的評価」という意図を果たすために、どの問題ができれば、こういう力がついていて、この問題を出来ないのはこういう練習が足りないんだよ……と、フィードバックできるようなつもりで、設問を立てる………のが理想。
一応、マルザーノ大先生のおかげで、だいぶ昔よりも見通しがついて……いるつもり。
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能力、手続き……いろいろなことを考えて問題を作っている……つもり。
意外と、凝れば凝るほど平板な問題にもなるのですが……。
繰り返しの結論
理想と現実の差はデカい。
考査を作るのはきついんですって……毎回、血反吐を吐く思いをしながら、数種類作ります。なお、これは自分が教えているコースが自分で丸抱えの単独の評価規準から好きに出来ています。
横で一緒に担当がいる場合は……ケンカしないで評価規準のすり合わせから始めよう!
*1:あまりすっきりとした書き方にならないのは、国語科の特性として「教えること」「活動すること」「できるようになること」が一体となってしまっていることが理由である。結局、畳上の水練では国語科の授業として保障すべき学力が保障できる訳でもないし、水遊びをさせていても泳げるようにならないのと同じように活動させていても、活動の設定が適切でなければ能力は身につかない。