ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

自分で選択する

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やっぱり行方が不明になる「羅生門」……教えなければいけないことと自由にやらせたいことが、授業時間不足でクラッシュしている。

文学研究ではない

ひつじ書房のセールのおかげでお安く手に入れたのが次の本。

〈国語教育〉とテクスト論

〈国語教育〉とテクスト論

 

何と八割引き。前に借りて読んでいたが、この割引率なので本棚に確保。

まあ、この本の中にも「羅生門」の高校での実践について紹介はされている。が……正直、自分の好みには合わない。本書で挙げられているプランの一部を引用すると…

(1)まずは通読させて、作品に対する感想や意見を率直に書かせる。

(2)教師の側から、テクスト研究の多様な切り口(後掲の1~20=例)を示し、それらの目的について簡単に説明を加える。最も関心のある項目を一つ選択させて、一定の期間を与え、レジュメや資料を作成させる。参考文献やアドバイスを求める者がいれば適宜指示する。

(3)教師は、分担した生徒に1から順に発表させて、必要があれば修正を加えたり、コメントを述べ、その個々に関連する先行研究や文学理論などを紹介する。

(中略)

(7)すべての発表が終わり、作品を多角的に眺める作業がひととり終わったと思われるところで、作品に対する感想文を再度書かせる。と同時に、文学研究の方法として何が必要不可欠であるか、意見や感想を問う。

(8)「羅生門」以外の文学作品を、この授業で用いたような方法で読解し、鑑賞させる。

(P.169)

はっきり言って、もはや国語科教育の範疇を超えている。そもそも、授業時間数がめちゃくちゃもいいところである。この提案だと「二十時間から二十四時間くらい」(P.180)実際、確信犯で「他の教材や単元へ割くべき時間を必要以上に削る、一種の暴挙ではないか、という懸念がある」(同)と筆者自身が述べているのにも関わらず、「一篇くらいは精読し、研究対象として徹底的に扱うクラスがある方がよい、というのが私の意見だ」(同)と開き直っているので、もう……どうもならん。

なお、現行の学習指導要領では「羅生門」のある「国語総合」は4単位科目なので、年間で140時間で現代文と古典を扱う。そのうち、「読むこと」に充てられる時間は、現古合せて「70~90」時間程度であり、単純計算で2で割って現代文で使える時間を考えると、30~40時間といったところである。その30~40時間で小説と評論と韻文を扱うことを考えると、とてもじゃないけど「羅生門」に20時間も配当を当ててしまったら論外である。

やればやるだけ、よいことは出てくるだろう。しかし、その結果、等閑にされるものが決して小さくないし、「羅生門」のほうがそれらより重視される根拠はない。発表やレポートまとめがあるからといって*1、書くことや話すこと・聞くことを指導したことにはならないんだよ……。

まあ、力がつけば究極的には手段はどうでもよい。しかし、自分の力量ではこのような授業はとてもじゃないけど出来ないのである。そもそも、生徒に教えられるほどテクスト分析や批評についての勉強を出来ていないし、今後もそこにエネルギーを割く予定はない。

根本的に、文学研究の経験をさせたいのではないのである。大学のことは大学でやればよい。

でも、じゃあ何で「羅生門」を読んでいるのでしょう。こんな授業はきつい思いをしながら。

自分のことを自分で論じるために

色々と思うところはあるが、シンプルに今、大切にしていることと言えば「自分の考えたことや感じたことを自分だけのものにしないで、他人と共有可能の形に語り直す」ために、国語の授業の中で丁寧に根拠をあげたり、説明に言葉を尽くしたりすることを生徒に求めるのである。

結果的に、自分のことは自分で説明することになるのだから、いわゆる言語活動のように、授業の中で生徒が自分で考え、対話して、熟考する時間を多くとることになるのである。

そのためには、結果的には、「羅生門」の先行研究で明らかにされている「読み方」の切り口を利用して、生徒に面白さを伝えることもするし、例えば下人について本文から

表現を地道に引用させてまとめさせるような作業もする。

でも、それは文学研究の真似事をさせたいのではなくて、生徒たちがなんとなく感じてそのままにしてしまっている感覚を、ちゃんと言葉に直すということ、言葉で精緻に捉え直すということをやってほしいからである。

「よく分かりました」「色々な考えがあってよいと思いました」「様々な意見がありました」……こんなノリで生徒は、自分の理解したことや見ていることを説明することに「手を抜く」のである。

それを追いまわして、しっかりと他人にも説明が伝わるように、何度も書き直させつつ、丁寧に自分の思考を把握させたいと思うのである。

せめてのモチベーションのために

とはいえ、そんなしんどい作業にいつもいつも生徒がついて来られるとは限らない。

気分や調子によっては悪気がなくても上手く行かないことはある。

だから、せめて授業の中で考えることには、緩やかな選択肢を渡すようにしている。

教育のプロがすすめる選択する学び: 教師の指導も、生徒の意欲も向上

教育のプロがすすめる選択する学び: 教師の指導も、生徒の意欲も向上

 

読んでからびっくりしたけど、自分がやっているのと同じようなことが書いてあるのである。選択をすることで、生徒自身がオウナ―シップを学びに対して持つようになるし、異なる選択をそれぞれの生徒がしているからこそ、他の生徒のことが気になるし、尊重して意見を得たくなるのである。

安心・安全の場ができれば、選択する学びは上手く行くのである。

ただ、その「安心・安全」がなかなか上手く行かない。まさに、活動の中で今、作りあげられつつあるところである。

「羅生門」がただでさえ重くて迷走しているのに、そんな感じでそれぞれに色々なことを考えて欲しいと思ってぐちゃぐちゃやっているうちに、さぁて……どうやって単元を収めようか……単元の行方は、誰も知らない。

*1:ついでに書いておくならば、この提案、このICTの時代に「かつては手書きで発表用の原稿を作成し、提出してくるのが普通であったが、ワープロ・ソフトの普及により、手書き原稿が減ってきた。(中略)引用した字を読めなかったり、タイピングした文字の変換ミスに気付かないなど、リテラシーの貧しさが文明の利器によって助長されている現実にわれわれは直面している。発表用原稿はなるべく手書きで作らせる。」(P.181)とこの辺りも「何言ってんだ…」と思うくらいに、何から何まで意見は合わない。逆に自分などは手書きはストレスが溜まるのでやりたくないし、それをリテラシーの低さだと詰られるなら、レポートなんて書きたくないと心の底から思うのである。むしろ、ワープロによってアウトプット量が増えることで得られる利益の方が多い時代に、根性論は仲良くなれそうにない。

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