生徒と次年度の総合学習に向けてゆるゆるとテーマづくりや問いについての授業と振り返り。生徒がとりあえず気楽に出してきた問いや知っていることを読んでみて、なかなか「うーん?」と思うのである。
「問い」は自然発生しない
あまり本腰を入れてテーマを決めたり問いを立てたりさせたいわけではないが、生徒がとりとめもなく出してきた提出物を見ると、なかなか、やはり探究のプロセスを回していくことは大変だなあと思うのである。
生徒が何も訓練されずに出してくるものは、「問い」になっていないのである。いや、そもそも、今回はちゃんとテーマについて掘り下げるということもやらないで、本当に気軽に触ってみたという程度の一時間のまとめであるので、「問い」なんて言い出すこと自体が誤りではあるが、それでも小学校、中学校、そして高校の教科の授業で、なかなか「問題意識を持つこと」と「問いを立てること」が訓練されきれていないのだなぁと、直面するとなかなかショックなものがある。
正しく問えば、正しく考えて答えを出せるということを生徒には常々言っているが、当然ながら腰を据えて「正しく問うこと」の手法を自分も授業で扱えていないのだなと反省。すっかりQFTをやれていないし。
そもそも「問いを創る」ということを教員が専有し過ぎなのである。「問い」を作って「問い」を洗練して、より具体的な問題意識にしていく経験が足りないのである。能力の問題ではない。
次年度はいい加減、QFTで実践を取りまとめよう。教科の中で問うことが増えなければ、総合学習にたどり着かない。
問題意識のあいまいさ
これも本腰をいれて教えているわけではないので、別に今すぐにどうのこうのという話ではないが、不用意に生徒に「何か気になる問題はない?」と問いかけると、色々なことをいうが、決して解像度の高い問題意識が説明されることは少ない。
問題を問題であるということを正しく認識するためには、それなりの知識が必要である。ちょっとして言葉づかいに引っかかりを覚えて、一つ一つの背景を掘り下げて、そしてそれが自分にとっての問題なのかということを考えて、そこから自分の扱うべき問題として表明する……思いつきはどこまでいっても他人事の響きを持つのである。
最近、はやりのSDGsには上の本のように「自分事」という言葉がセットで使われることは多いのだが、そもそも問題を探してくるときにSDGs関連の資料に出てくるものから手頃なものを探すという方法が「他人事」だし、17の目標と169のプロジェクトについても「題目」だけ眺めてわかった気になっても「他人事」にしかならんのである。
SDGsをやるならやるで、国連から出ている資料を読んで、背景を理解したりどういう思想なのかを考えたり選ばれた言葉のニュアンスを日本語と英語で比べてみて、結局、どういう概念なのかを検討したり……そのくらいはやってもいいのではないかと思うのだる。誰かの調べた、誰かが記録したことを参考にして自分の問題を創ることと、自分の問題意識のようにすり替えてしまうことには大きな差があるのだ。
調べ学習から探究に進むには
問題意識がなくても、自分事にならなくても別に調べ学習ならできるのである。
適当にインターネットや本から調べてくればいいというふうに気軽に言える。逆に言えば、「どうやって調査・研究するのか」という問いに対して「インターネットで調べる」としか言えないのは、自分が何が何でもやらなければいけないという気持ちがないということや技量がないということである。
調べ学習から生徒を進めるのであれば、担任がきちんと生徒の出してきたものを読んで対話するのがよいのだろう。
対話といえば聞こえはいいが、要するにダメ出しである。
生徒の安易な思いつきは退けながらも、面白い話なのに自信がなさそうにしているものを元気づけつつも足りない点を補足しながら話を進めるには、時間をかけて慎重に話すしかない。
そのためには教員の探究への態度も、自分自身が何が質が良くて、何が問題なのかということを見極めるだけの審美眼は必要である。生徒の手抜きと甘えを見抜き、生徒が本気になるまで追いかけられるか………音を上げるのは大人の方が早そうだという絶望的な気持ちを持っているのは、あまりよくないのかもね。