正真正銘、本日で2019年度の登校日は終了。あっけないものである。
自分が思った以上に、愛着と思い入れでこの仕事をしているのだと思い知らされたよ。中学四年生だと思っていた生徒たちが立派に成長していることと、自分がこの子たちの担任になっているのだと思ったのです。
授業もクラスも中途半端に…
やっぱり気持ちとしては「中途半端」さに悔いが残っている。
自分の授業が全て終わっているからいいと言われてしまうと、終わっていないで悔しい人もいれば、担任はなおさら悔しい思いをしているのに、あまりに無配慮だよなぁと思うのである。何を教えているのか、教えているのは教科だけなのか。
— ロカルノ (@s_locarno) 2020年2月28日
これはほとんど八つ当たりに近いつぶやきである。
計画性だとかそういう問題ではなく、生徒たちの活動が少しずつ煮詰まっていき、やっとゴールが見えたときに、そのゴールがなく、唐突に解散となってしまうことにやりきれなさがある。子どもの成長を見ることが楽しくなければ、この仕事をやっていないし、その楽しみが奪われて気持ちが切れていることは否めない。
まあ……納得するしかないのと、このあとのフォローでちゃんと自主性を発揮して頑張ってくれる子たちが見せてくれる成長を楽しみに生きていくさ……。
一か月でどうなるか
この一か月でどのように生徒が、学校が変わるかというのは誰にも予想がつかない。ただの長い春休みになるか、予想外の動きに忙殺されて何もしないか……なかなか学校によって差がつきそうな気がする。
最悪なのは、忙殺される人が休めず、休んでばっかりいる人が学ばない……ということだなと思うのである。
おそらく、学校としてあわただしいのは来週中まで。その時期を過ぎれば、おそらく気持ちも仕事も落ち着いている……はず。そこから先は何をするかは、かなり自由な裁量に任されてくると思われる。
思うに、週明けのあわただしい時期に、少しでも落ち着いてきてからのことを示せるかどうか。こういうことをしたい、こういう話し合いをしたい、そんなことを示せるかどうか。
考えてみると、三月は普段は忙しい。それがこうしてぽっかりと空白になる以上は、落ち着いて足元を固めて、学校としての体力を作り直すのがよいのかもしれない。
ここでどんな話をするべきなのだろうか。大学入学共通テストの話でもする?
これもこれで大切かな。
各教科の変化を共有することで、科目を横断できるような授業を来年度に企画しようという話ができるかもしれない。同じ職場にいながら、よその教科がどのようになにを考えているかをわからないまま仕事している気がするよ。
一つ、形に残る形で検討し合えれば、授業をやってみようという話ができるかもしれない。
いやいや、学校そのもののポリシーを考えるべきだろう?
「理想の学校」を語る余裕がないのは忙しいからである。ある意味、生徒がいないで大人の時間を持てるこういう時に、自分たちがどういう学校を作りたいのかを腹を割って話す必要があるのではないか。
「忙しい」を言い訳に「学校づくり」を他人任せにしていないか。
こういうことをやれる時間でもある。
気持ちを切り替えられるか
ショックな気持ちが大きい。だから、すっかり仕事のやる気も放棄してしまっている状況である。
しかし、いつまでもダラダラしていてもしかたない。
どうやって、この逆境を上手く進めることができるか。歩みを確実に進めたい。自分から声を上げ続けるのである。独断専行で上等である。