ついに正式に緊急事態宣言の延長が決まった。
緊急事態宣言 社会経済活動の再開につなげられるか課題 | NHKニュース
社会がいつまで停止してられるかという社会実験を見せられているかのような気分である。そして、その社会の一部である、学校に関わる教員という立場で、今後の学校のことを色々と考えなければならないと思うのである。
学校は変わるか、あるいは終わるか
7日以降も、学校が通常通りに再開することはない。6月になったら解決するというのも楽観に過ぎるだろう。そんな事情もあって、今後の学校がどのようになってしまうのかということについては、教員であれば多かれ少なかれ心配をしている。
ただ、その心配の仕方が多くの場合、「授業をどうしようか」という悩みである場合が多い。少なくとも、いつかは二月の終わりまでに行っていた、普通の授業、普通の学校生活が戻ってくるのだという期待をして仕事をしているように思う。
だから、急場しのぎのように動画コンテンツを作ることに慌ててみたり、どのような課題なら生徒が学習できるのかという話ばかりに終始しがちである。
そして、それが面倒見の良さの指標のように見られることにも、同調圧力のような雰囲気でやらねばならないとなっていないかと感じる。
しかし、こんな話もある。
教えたいのは教員であって、本当に生徒に必要なものは、コンテンツなのか?
子どもたちがどんなことに困っていて、どんなことを欲しているのかということが、距離的に離れていることもあって、「教員の想像」で議論されている。その「想像」が、教員の「こうあって欲しい」の色合いが強い可能性は否めない。
もしかすると、無意識に、本能的に、もう前の学校には戻れないということに対する恐れから、なんとかいつかの学校を守るために、必死になっているのかもしれない。
しかし、2ヶ月、学校が閉鎖されて感じることは、もう、戻れないところまで来ているのではないかということである。
だから、学校はコロナを機に、変わっていくのだろう。九月入学の議論にしてもそうだし、一人一台ICT環境を声高に求めるようになっているのも、そういう流れなのかもしれない。
しかし、変わるということは誰にとっても気の思いことだ。なかなか、身に染み付いた習慣は変わらないし、愛着があるものを手放すことは苦しい。
もしかしたら、このまま、変わらないことを選び、時代ともに去っていくということも起こるのかもしれない。
コミュニケーションをベースに
何を想像しても、悪いことに偏りがちだ。仕事としては振り回されながら、やれることをやるしかない。
自分も生徒に向けて自分の今の思いを伝えるような動画を拙く作るだろうし、必要があれば家庭訪問だってやるだろう。学校で、生徒と、ともに、という学びに気持ちを持って授業をこれまでやってきたのだから、みっともなくもしがみついていくのだろうと思う。
しかし、学校と心中する気持ちはあまりない。学校が終わろうと、教育の仕事はなくならない。
自分はどんな姿勢で、何を目指して、何を使って教育に関わっていくのだろう?
その前に、目の前にいる、今の生徒たちとどのように関わって行こうか?姿を見ないで、何をコミュニケーションしたらいいか、やはりよくわからないでいる。
現状は、自分から生徒に関わっていくのは難しい。
自分を選ばない生徒にはできることはないのだろうか。選ばれないといって、何もしなくて良いのだろうか。
休みが終われば、また1日1日、手探りで戦いである。