生徒が全員揃って授業が始まると、教科のオリエンテーションとして、今年一年の学びの過程や扱うテーマなどの話をして、見通しを持ってもらうことを目指す。
しかし、毎年、毎回、ここでどんなことを話すべきかに迷うのである。
文章の「内容」ではないけど…
生徒のみならず、教員にとっても難しいのが、「国語は何を教えるのか」ということである。学習指導要領的なことを言えば、「言葉によるものの見方・考え方」になるのだろうけど、まあ、それで説明にはなるまい。
高校ともなると、読む文章自体のレベルが高いので、内容を理解すること自体に非常に労力が割かれてしまうという事情もよく分かるし、内容を読めるようになること自体の価値もあるとは思うのだが、やはり「内容」に終始しないようには注意深くなりたいところだ。
様々な事象の内容を自然科学や社会科学等の視点から理解することを直接の学習目的としない国語科においては,言葉を通じた理解や表現及びそこで用いられる言葉そのものを学習対象としている。(学習指導要領解説より)
この文言に無茶があると一蹴するのは簡単なのだが、「様々な事象や内容を自然科学や社会科学等の視点から理解すること」を目的にして、内容の解説に終始してしまうと、「エセ専門家」となって生徒に解説を繰り返すようなことになってしまいそうで、自分が釈然としない。内容の理解自体も高度な言語力だと思うので、必要性は分かるのだが、それを免罪符に内容を教える…ということだけは出来ないという話である。
だからといって「言葉を通じた理解や表現及びそこで用いられる言葉そのものを学習対象」と言われても、さあ、どうしたものかよく分からないというのが正直なところだろう。
これをこのままオリエンテーションとして、生徒に話しても仕方が無い。
言語技術だとも言われて久しいが…
国語科の教科内容として「言葉」を問題とするのはよく分かるし、実際に「言語技術」というような話は時枝誠記のころから存在しているくらいには、議論されてきている話である。
こんな記事を真面目に書いていた時期もあったので、言語技術のあれこれは繰り返さない。
結局、言語技術だけを取り出して教えようとしても、畳上の水練にんしかならないので、常に内容と表裏一体なのである。当たり前ですね。
以下のような記述を毎年、オリエンテーションの時期になると読み直している気がする。
言語活動を対象とする国語の授業は、言語内容を追究する主体的、意欲的な言語活動を通して言語形式を指導することが大切になってくる。(中略)指導者は、学習者の学習内容に対する意欲づけを絶えずはかりながら言語活動の場を用意し、その活動を成立させる言語技術の見通しをもち、指導の機会をとらえていなければならない。その上で、適切な時点で、学習者の意識を、学習内容・言語活動から学習方法・言語技術へと切りかえさせるのである。このように、国語科の授業における指導活動は、価値ある課題にむけて学習者をひっぱっていく側面と、その過程で言語技術を高めていく側面との二方向でとらえていく必要があるのである。(山元悦子1995「国語の授業の構造」『国語教育を学ぶ人のために』世界思想社 P.228より)
十年来、この記述を読んでいるけど、未だに消化できない。
この論考の前後に大村はまの授業の構造の解説があるので、それと合わせて自分の授業を何度も振り返るが……毎回、なかなかどう生徒に伝えるかが難しい。
思うに、自分に準備できることは、生徒に「読むに値するだけの資料」を数多く、生徒の実態に合わせて用意することと、それらの素材からどのような技術を取り出せるかを考え続けることだけだろう。
そして、実際に生徒と素材を会わせた時に、どのような反応をするかを見ながら、その時々に、必要な技術を見取っていく。
資料ばかりを読んでいると内容に終始しがちなのであるが、内容そのものを理解させようとすることに陥らないように、まあ、理解させること自体に難しさも大いにあるのだが、どれだけ自律した読み手、書き手になれるかという観点で、技術を教えていくしかないのだろうな。
教える授業は爽快ではある
年に数度は、知識を伝達するために、教える授業を行うこともある。
分かりやすく教えて、生徒の蒙が啓かれていくように見える瞬間は、爽快感すらある。しかし、そういう見え方をしてしまうこと自体に問題があるような気もしている。
内容を抜群に教えつつ、生徒の思考回路まで鍛えるような授業は、全国を見渡せば数多くあるとは思う。
しかし、そういう名人芸は自分には出来そうにはない。
技術を磨くかと言われると、それよりはやりたいことが他にあるかなという判断にはなる。
一番、よろしくないのは、技術を磨かずに、今ある手札で授業をして、最初に授業を作ったときよりも熱量を減らしながら、再生産していくことだろう。常に、新しいことを試し続けていたいところだ。