生徒の探究学習もコロナですっかり止まっていたけど、そろそろ再始動というところ。しかしながら、新しい生活様式なるもののせいで、どこにも行けないし図書室だって貸し出しが渋い状況になっているし、発表の場もなかなか確保が難しいし……さて、どこから手をつけたらいいか。
グローバルか地元か
総合学習の方向性としては、今のはやりとしては二種類あるように思う。一つが地域から考えるようなパターン。
地元の自治体と協力して地域活性化のイベントを考えるなどの取り組みや、生徒自身が街に出てアクションを起こすようなタイプのものである。
ここまで出来たら、学校の探究ではなくて、生涯の学びと呼んで良いかもしれない。kのような方向性である。
もう一方のはやりが、地域と比較的つながりの弱い私学に多いのだが、グローバルな方向からテーマを広げていくというパターンである。SDGsは地域課題とも繋がっているが、それでもやはりグローバルという方向にもなりやすい。
自分の興味関心に合うものを探すという面では、グローバルで考えるとどこかの国の切実な問題になっていることも多く、使い勝手は悪くないのである。
英語などの語学とも結びつきやすいこともあり、大人からのウケはよい印象である。
この二択はどちらから考えても、結局、考えなければいけないことは同じようなことにはなってくると思われるので、神経質にならなくてもよいとは思う。ただ、どちらから行くのかということによって、辿っていく思考が変わるんだろうなぁと思うし、限られた時間からすれば、どうしても選んだルートで見えてこないままになることもあるんだろうなと感じる。
個人的な思いとしては、地元のことをきちんと知らないでグローバルと行くのは、問題に対する当事者意識を失うような印象があるので、地道に行った方が良いとは感じる。グローバルな問題は、地元でも問題になっている可能性は高く、結局、自分の足場のある現実からしか、遠くは見渡せない。
まあ、個人的な思いであって、生徒によっては色々な視座があるだろうから、縛るほどのものでもないとも思うが。
現実問題として、学校として、教える教員として、本当にバラバラの自由で……というほどの胆力はなかなか持てない事情もあって、どちらかに絞って、協働して生徒のための資料を教員同士で作ることもあるので、どっちがいいのかなぁというのは悩ましい問題だ。
責任は誰にあるのか
総合学習の成否はどうのように測られるのでしょう?
個人的には思うところもあるので、そういうことを議論したいとも思うのだが、自分が思っているほどに自由で、やりたいように……とは、言えないことの方が多いというのもよく分かる。
一年間、ひたすらモチベーションを出さずに、しまいには内職で勉強をするようなことになったら……という心配は大いにあるのだろう。また、生徒の失敗に、なかなか寛容にもなれない。失敗がしないようにと、先回りしてあれをやれこれをやれということを指示してしまう。
学校なので、生徒を育てることに意味があるので、探究学習の時間を自由に遊ばせておく訳にもいかない。まして内職で教科の勉強などされていたら、もう、意味が無い。
とはいて、一方で、何を学ぶかということを選ぶことも、どうやって取り組むかを選ぶことも、どんな成果まで残したいかということも、いずれも選ぶことは生徒の権利であり、責任でもあると思っている。
舞台に上がって、恥をかいて学ぶこともあるんだよ。
でも、ムダな恥をかかせないことも必要のです。
どこからが仕事で、どこからが手放すところだろうか。