もう、新学習指導要領が始まるまで一年半を切っているのですよ。
教科書がないから議論できない?
新課程をはかなり大きな変更であるので、どのようなカリキュラムを作るのかが学校の「色」になる。非常にここでの選択がその後の数年間を決めてしまうので、慎重にかつ大胆に議論されることが必要となっている。
ただ、その議論がいかにして今あるものを守るかということに終始するのであれば、徒労にしかならないのである。本気で矜持から大切な価値観を守ろうという議論であれば、賛同しなくても理解できないことはない。でも、何か良いことをいいながらも本音は今の手持ちのカードから勉強することを拒否しているだけならば、何を折り合いつけることがあるだろうかと思うのである。
個人的に、その最たるものが「教科書がないからカリキュラムを作れません」ということである。
まぁ…教科書が来て、全然予想と違ったらどうにも困るのは間違いないけれども、授業って教科書の内容で何をするかを決めるものでしたっけ?主たる教材として使うことと、自分たちの学校のカリキュラムをどうするかという話が全然、別の次元であるということは、勘違いしない方が良いだろう。
特に、高校の国語についていえば、文学国語の問題は大きいのだから、教科書がなければ授業出来ないなんていっていたら……。
問題の根深さが国語科にしかなかなか共有されないからこそ、他教科が単位数を分けてはくれるものではないし、国語科が自分たちの工夫で守るべきものを守るしかないのである。
その時に、教科書がないといって議論が出来ないといってしまっては……そこに何かこだわりや矜持があるわけではなく、今の状態から何かを学ぶ気が無いのだろうなと、徒労感がある。
生徒に学べというのだから
自分たちが何を教えるかは趣味ではない。法的に決まっているから学校で身分を保障されながら教える行為が許されるのである。だからこそ、与えられた枠の中でしかやれることはない。
だからこそ、自分たちが守りたいものがあるなら、自分が勉強して、戦うしかないのです。
自分たちのやってきたことが素晴らしいというのなら、それを活かすために一手間をかける。別に根本を壊せという話ではない。その一手間のための工夫や勉強を出来ないならば、やっぱり、生徒に勉強しろなんて口が裂けても言えないのではないかな。