校内に授業を研究する風土があるかないかは大きな違いだろうと思う。授業を研究すると言うことは、それは教員としてのプライドでもある。
思いつきにならないために
「よい授業」とは何かということを答えることは難しい。
一言で答えることは難しいが、「よりベター」なものを追究していくことは、比較的、頑張れば挑戦できることである。
それは、ひたすら今まで行われてきた実践を、執念深く掘り起こし、蓄え、自分に必要な物を取り入れていくという作業である。それは、普通の人が独学で勉強することと何も変わらない地道な作業である。
先行実践に当たらないで、思いつきで新しい授業を作って、抜群に優れた授業を作れるのは、一部の天才だけだろう。普通の教員であれば、思いつきの授業は這いずり回る授業か車輪の再発明に陥りがちである。
一人で、実践を掘り起こして、ああでもない、こうでもないと考えるのは、色々としんどい。だからこそ、仲間で手分けして実践を読んでいきたいと思うし、自分だけでは言語化が難しいことを、誰かと話し合う中で明確化していくという作業が重要なのだ。
もちろん、一人でやるよりも意見の対立など乗り越えるべき軋轢は生まれるし、ハードルは低くない。しかし、本当に持続可能性を考えて授業改善に取り組むのであれば、校内でチームとなって向かっていくしかないのである。
授業を変えると言うことは職員室を変えるということ……そんなことを思うのである。
腰を据えて本を読む
易き方に流れることなく、本当に、自分の学校、自分の教室に必要な授業を行おうと思うと、イチイチ、考えなければいけないことは多いのである。
今年発売された、石井英真先生の本が、コンパクトにまとまっていながらも、明治図書的な本に慣れた教員には小難しくて大著に見える位には、授業を根本から考えることには大変さはある。
※余談ですけど、表紙の子の表情が良いですよね、この本。後ろめたさがない。こういう表情の教室はきっと見学していても落ち着く。
勢いだけでは解決できないのだ。
本当にどんなことをやりたいのかを、膝をつき合わせて対話することは必要である。普段は、授業について青臭く語ることすら出来ていないのが、一般的な職員室なのだから。
授業への憧れ、ああしたいという気持ち……そういうものは、毎日を漫然と同じ事を繰り返していては生まれてこないのである。
自分とは離れたところにあるものを目指して、何とか勉強しようと進んでいくときに、価値観の違いも落とし所を探る可能性が出てくるし、相手の意見を尊重し合える可能性が生まれてくる。ただ、自分の思いつきで気持ちを表明しているだけでは、感情的な対立しか生まないのである。それなら、授業なんて協業しない方が良い。
そして方法のパッチワークにならないように
面白い授業、よい授業を目指していくと、つい、苫野先生のいうところの方法のパッチワークに陥りがちである。
しかし、それもどこかで乗り越えていかないとね。
方法に合わせるために生徒がいるのではなく、生徒のために適切な方法が選ばれるのである。いや、むしろ、方法を選ぶのも生徒になっていかないと行けないんだろうな。
教育は、保護者の期待や社会の期待を受けて、その期待に答えるために行うという面も事実であり、責任でもある。
しかし、期待に答えることと顔色をうかがうことは同値ではない。
むしろ、自分の授業のデザインを自分の外側にあるものに握らせてしまうのは、非常に惜しいなと思うのである。自分がなけなしの専門性として磨いてきたものは、教室にいる生徒の姿から何が必要かを判断して、授業という形に具現化するということであるはずである。
だからこそ、自分の授業は自分がデザインするのだということを手放したくはないのだ。
そして、その一つ一つの授業が、思いつきではなく、理詰めで、冷静に考えられたものを目指したいのである。