「こころ」を自力で読んでもらうという単元。高校2年生の終わりに、これまでの小説読解の全ての技術を尽くして読む。
この本で紹介されているような高度なところまではたどり着かないけど、「自力で何かを読んだ」というくらいのことは残したい。
話し合うのは体力が要る
今年はコロナの影響もあって、自由に気軽に話合い…とはいかない。感染予防のために距離を置いたりターンで交代して話したり小声で話したり……およそ、対話的な学びには向かない状況で授業している。
まあ、オンラインで意見を集めて共有して、各自で考えてもらったり、ICTの力で見える化したり……と、色々な工夫や挑戦をする口実にもなっているので、悪いことばかりではない。
ただでさえ、何かを議論する、意見を話し合って協働して読むということは、自分とは異なるものを受け入れる、他人に自分を理解してもらおうというストレスのかかる作業であるのに、「こころ」のような生徒にとって重量のある小説を、ちゃんと他人に伝えるに値するだけの言葉に練り直すという作業は、かなりキツいところがある。
ただ、この重さ、キツさは、体感して、格闘して、自分自身で体力をつけていくしかないことである。
生徒も色々な事情を抱えている。そうそう誰もが気軽に発話できるとは限らない。配慮すべきことは山ほどある。
それでも、だ。
難しさを「させないこと」で覆い隠して、課題に直視しないということも無責任だと思うのである。具体的に、何をどうするという話は、個別具体的な文脈があるから言い難いが、できることを少しずつやる必要はあるのだ。
生徒が何を話しているかは聞こえる
同時多発的に生徒が話している状態で、教員が生徒の様子が見えていないように思われるようだが、授業でどこに力点を置くべきかが自分の中でクリアな時は、必要なことは詳細は無理でも全体としては感じ取れる。
素材に対してどのようなことが想定されるのか、何が子どもたちの躓きになるのかということを見通していると、どのくらいのタイミングで何が起こるかを予期しながら、対応が出来るのである。
まあ…もちろん、逐一、把握するのは無理である。詳細は分からないとしても、どのような力をつけたのかということを、別のパフォーマンスで評価、見取っていく。
一つの授業で、一つの場所に集中しすぎると、その授業が上手くいったような感触だけ残って、大失敗していることが多いのである。
無駄の多さは感じるが…
「こころ」を自力で読んで準備してくるのがキツいので、授業で一緒に読んで解釈するという時間を授業時間の3割くらいは投資している。この時間が真面目に準備している生徒には無駄に思えてしまうし、やらない生徒は拍車をかけてサボって何も準備せずに授業に臨む温床になりしょうな様子はあるのだが、一方で、一緒に読むという時間も軽く見たらいけないのだろうなと思っている。
「こころ」は生徒にとってはやはりそれなりのハードルである。最後まで読み終わると、それなりに高校生に響くものがあるのだろうけど、そもそも最後までいきつかない。
でも、教室で時間をとって「読まざる得ない」という時間があることで、少しでも自分で向き合わざるを得ない……そういうところから一緒にやっていかないといけないんだな…そう思うことが多々あるのである。
授業以外では国語なんてやってらんね、英語や数学の方が忙しい、部活動の方をやりたい、Youtubeは楽しい……そんな状況では、「読んでおいで」で読めるほど、自立した読者が、無条件で存在するわけ無いのだ。
非常に、莫大な時間をかけてしまっている。必ずしも集中できるわけでもない。
それでも、まずは、無駄を承知で、一緒に読んでみるというところから、読むということに向き合う時間が切実に必要なのかもしれない。