あまりに話題が広いので、今日は問題意識を書き付けておくことだけ。
きっかけは…
某所でちょっとしたものを読んで、問題だなぁと思ったのです。
あるところで、生徒の探究の計画を「採点」なんて言葉遣いしているものを見つけましたけど、無自覚にそう言ってしまう時点で、色々と厳しい。
— ロカルノ (@s_locarno) 2021年3月21日
教員向けの研修の素材として生徒の探究の具体例を使うということは構わないと思うのだけど、「採点」という発想で眺めるという時点で、スタートが根本的に間違っているように思うのである。
もちろん、これは「みんな違ってみんないい」という発想ではない。
これと裏返しの問題として、探究の評価がなあなあな場合も多すぎる。みんな違ってみんないいって感じでちゃんも生徒にフィードバックしない。ちゃんとした評価が機能しないとただの趣味になる。趣味ならまだしも下手するとなし崩しに手打ちである。 https://t.co/LQtlRrwFYE
— ロカルノ (@s_locarno) 2021年3月21日
ちゃんと「評価」してフィードバックができないと、必ず探究は弛む。そして、ただの趣味になってしまう(趣味が悪いというよりは教育的な価値を説明できないでいいと教員が放棄してしまうのは職務放棄だろうと思うのです)か、非常に退屈で時間を浪費するようなものになってしまうのである。
ただ、採点をするようなものではないと強く主張しておきたい。
基本的には形成的に
探究の評価の設計ということは非常に難しい問題だ。参考にできる書籍はまだ多くない。
西岡先生の書籍がやはり一番しっかりしていると感じる。ただ、やはり「逆向き設計論」に馴染みのない段階でいきなりこの実践を参考に自分たちが実践するってかなりハードルが高い印象だ。
探究の教員の役割として、よくファシリテーターだとか伴走者だとかいう言い方をする。確かにそれは間違いない、否定できない側面であるし、そういう技術訓練は重要である。
ただ、それは「評価しないでいい」ということや「何でもかんでも寄り添う」ということとは少し違うと思う。生徒に対してきちんと足りないところを指摘して、改善へ駆動させなければいけないし、コンテンツの内容そのものには知識的な対応ができないとしても普段から生徒の様子を眺めている教員だからこそ「この子はもっと背伸びができる」とか「この子はこういうところが雑だからやらせよう」という判断をしてのフィードバックが出来るはずなのである。
中間地点や最終地点でのルーブリックなどを用いた評価で、学年として、学校としての質保障をしていくという話と、日常的に生徒の学習活動に関与するためにどう評価するかは分けて考えつつ、有機的につながらないと…と思うとこれが難しい。
そもそも生徒の様子をちゃんと「見取る」ということが難しい。その点、例えばOPPAなどは使い勝手は良かろうと思う。
ただ、こういうツールにしても「なぜ見取る必要があるの?」というところが取り組む教員集団で一致団結できないと活用は難しかろう。生徒から毎回集めてコメントをつけて返すことが仕事ではない。
教育観の打ち合わせから
面倒くさがって、全然、エンゲージメントが弱いんだけど、やっぱり「探究をどうしたいの?」という思いがなければ、そしてそれを語り合う時間を十分に投資しないと、探究は難しい。
そこを省エネしたいからパッケージ化されたもののバルブな状態になっているのだろうとも思う。パッケージって悪く言えばオママゴトである。
学校で、オママゴトに熱中できそうですか?