授業準備はいつでも行き止まりである。
授業準備は机上の空論ではない
国語の授業で何か面白いことをやろうとしたら、どこまでも自分が言葉の使い手として実践しなければならんと思うのです。いいアイデアが思いつかない時は、使いたいと思う素材の写経から始めるし、言語活動があるなら自分でプロトタイプを作ることから始める。頭の中の言語生活者じゃ進まないのだ。
— ロカルノ (@s_locarno) 2021年6月26日
授業準備に頭を抱えない日はない。いつでも授業ギリギリまでどうするのかが見えないで苦しむのである。
だいたい、行き詰まってくるパターンも分かっている。
授業準備に苦しみ出すと、頭の中で「これはだめだ、あれはだめだ」と頭を抱えていて、授業でやりたいことをシミュレーションするだけで却下してしまうということを繰り返す状態に陥る。
こうなるとあまり良くない状況である。
授業で扱いたいとピン!とくるものは、それなりにその言語の素材に魅力を感じているのだから、本当は頭の中でいい加減なシミュレーションをしていないで、実際にその言語材で言語活動をしてみるのである。
授業で生徒がどのような活動をするのか、どのようなアウトプットをするのか、どのような困難があるのか……そういう授業を作るために必要なことが、自分で言語活動をしてみれば気づくことが多いのである。
どんな授業づくりの解説書にも「自分でやれ」ということは書いてあるのである。
ただ、厄介なことに、そういう言語活動を自分でやることは精神的なハードルが色々と高い。まず、とりあえず、面倒くさい(笑)。いや、これはダメな理由ですよ、面倒くさいと思うことを生徒にやらせるな、である。
とはいえ、毎日の雑務に追われていると、自分で何か「作品」を作ってみるという活動をすることがとても精神的な負荷に感じるのも仕方ない。
だいたい、自分の言語活動をサボっている時ほど、生徒の実態が見えなくなっている。アクティブ・ラーニングでも対話的な授業でもいいけど、自分が考えもしないことを生徒にやらせたらダメである。自分がやってみないから生徒の実態から乖離するのだ。
— ロカルノ (@s_locarno) 2021年6月26日
授業のアイデアは地味なところにしか転がっていない。創作してみたり、発音してみたり、動画を撮ってみたり、試行錯誤してみる中で得られるものがあるのだ。稚拙なものを生徒に出すのはみっともないのだけど、まあ、そういう底を見せることも大切です。自分が学ばなくなるから。
— ロカルノ (@s_locarno) 2021年6月26日
でも、授業は生き物だ。自分の想像だけで動くほど上手くいかないのだ。
面白い単元を作りたいと思うなら
いつだって生徒が面白がって取り組む授業をしたいと思うのは、教員の心情である。
ただ、それが小手先の工夫になって、何かパターン化できるものだと思い始めた瞬間からダメになっていくのである。そういう小手先のパターン化を子供騙しという。
子供騙しは子どもをバカにしている。伸び盛りのものをバカにしてはならないのだ。
本気で面白い授業を作りたいなら、自分が本気で面白がる言語活動を取り組んでみないことには始まらない。活動しても「ここが面白い」「ここが楽しい」と思うことを本気で思っていないと、生徒に投げかける言葉も押しつけがましい命令口調になりやすい気もする。
自分でやってみて「こういうことが面白いんだよなあ…」という言葉で生徒を支援できるような授業を展開できると、落ち着いた授業になる。
そんな気がしています。