ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

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自分の仕事の向き不向き

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学校は外からは見えにくいが、色々な仕事を分担して取り組んでいるのである。授業を教えることよりも、圧倒的に事務的な作業の方が多いのである。

何処に力を置くか

色々な仕事をさせられるとはいうものの、どの仕事にどれだけのエネルギーをかけてよいかということは、教員の自由裁量であるように感じる(普通の企業ではありえないことかもしれない?)。だから、部活動にばかり時間を割く人もいれば、授業に時間を割く人もいるし、何だか学級のことばかりやっているように見える人もいて……そういう色々な人がいてバランスを取りながら学校が成り立っているのである。

まあ、価値観の相違によってお互いに「あいつは仕事しない」なんてイライラしながら過ごすのもありきたりな話なので、慣れてくれば日常茶飯事なのでスルースキルも身についてくるものである。

とはいえ、自分がどこに力を入れて仕事をする教員になるのかということは、節目節目に色々と考えるものである。

教員を続けていると、色々な場面で立場が大きく変わるものである。若い頃と同じような仕事の仕方はできないのである。

中堅の年代になってくると、自分だけの仕事をしていたらいけないのだろうなぁと思う。

多くの私立高校で言えることなのだが、今の職員室の年齢の比率はバランスが悪い。自分と同じくらいの年代の教員は数が多くないので、比較的、ベテランか新人が大量にいる…という状況なので、色々なところで仕事が滞りがちである。

たぶん、そういう滞っていく仕事を調整して回していくような役割をこなせなければいけないのが自分くらいの年代なのだろうと思う。

学級に向いていない

自分の特質を考えていると、およそ学級経営という面には向いていない。学級の力で生徒を育てることができない教員である。ちゃんと集団が育っていく学級と比べると、自分が担任するクラスは集団としては成熟しないのだ。

自分がおよそ学級という単位に縛られて生きてくることを拒絶したから、自分自身が学級に生徒を惹きつける気力が沸かないのだ。まあ、ルールとして守ってもらうところは徹底するということはうるさく言うけど、何かイベントを盛り上げたり思い出を共有したりすることを求めたくはないのだ。

自分の基本的なスタンスは、繰り返し何度か書いているが、基本的に卒業した後は、卒業した場所など忘れて生きていってもらいたいのである。後ろをふり返って、懐かしんでいる暇が無いくらいの場所に、自分の居場所を見つけて欲しいのである。そうして、時々思い出した時に嫌な思い出が残らなければ良いのである。

忘れられるために教えるという仕事をやっているのである。

数字を相手にしている訳ではない

自分はデータを見て仕事をするが、データを相手に仕事をしている訳ではない。だから、どうしても進路指導で数字を上げろという話になると気が乗らない。

別に偏差値を上げるために自分の授業をしている訳ではない。偏差値くらいは取れる授業はするけど、それは副産物であるしニーズに対する責任だけど、もっとやるべきことはあると思うのである。

データに基づいて資料は作るし、合理的な方法で仕事はこなしたいと考えるが、目的と手段を入れ替えて見られるのは不本意である。

心情的には、考査の問題で値踏みをするのもあまり好きではない。考査をせずにもっと評価できる方法あるだろうと思うわけで、考査に頼り切りの評価の在り方も考え物だなあと思うのが本音である。

まあ、テストされることで身になることもあるので、全面的に悪とは言わないのですけど、手段と目的が倒錯しないように……。

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