ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

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教科書をめぐるあれこれ

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こんな記事が話題になっている。

www.asahi.com

コンテンツではなくコンピテンシーを!だとか感情的なことより実用性だ!!だとか信仰対立になりそうな話は脇に置くとして、少し整理できることを整理して紹介しておこう。

授業の数について

あまり当該教科の教員でなければ(下手するとの当該教科の教員も意識していないかも)、その教科の中である分野をどの程度時間を割いて授業をするかが、学習指導要領で大枠が示されているということを知らないかもしれない。

今回の「羅生門」などの件については、「文学の授業が減らされる!!」ということにかなりの反応が起こることが多いので、学習指導要領上の数字を紹介しておこう。

現行の学習指導要領では高校の国語科の必修科目は「国語総合」であり、週4コマが想定されている。学校は基本的に35週で計算するので、週4コマとは140コマを一年間で授業することになるのだということである。

大雑把に言うと「国語総合」の学習指導要領では、指導事項は「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」の三領域に分かれており、そのうち、「読むこと」に充てる時間として学習指導要領に書かれているのは、現代文と古典を併せてだいたい75~95コマである。

現代文と古典の比率は同等にするように書かれているので、つまり、現代文の「読むこと」は評論小説詩短歌俳句随筆その他諸々を全部ひっくるめて30~45コマで指導することになる。つまり、仮に「論理系」の文章と「文学系」の文章を同じ比率で指導することになるとすると、現行の学習指導要領では文学の一年間辺りの授業数としては15~20コマくらいになるのである

実際は、三領域を明確に区別して指導できるものではないので「話すこと・聞くこと」の指導のために小説を読んだり、「書くこと」の指導のために評論を読んだりなど、様々な領域で素材を読むということがある*1

次に令和4年度からの学習指導要領であるが、これは高校の国語科の必修科目は「現代の国語」「言語文化」の2つをそれぞれ週2コマずつ実施することになっている。

具体的な領域別の授業数については、今回の学習指導要領から親切にも一覧表を作ってくれているので、学習指導要領の解説編にも示されている以下の表を参照するのが分かりやすい。

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(【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 P.14り)

これを見ると【近代以降の文章】については、「言語文化」の中で「20単位時間(=20コマ)」とされており、実は現行の学習指導要領から授業数自体は決して極端に減らされている訳ではない

このことは三年前に書評と併せて記事を書いている。

www.s-locarno.com

そこでも書いたが、現状の「読むこと」偏重の状況からすると、今回の騒動のようなことが起こるのである。

なお、今回の学習指導要領の案が出たのは三年半くらい前である。

www.s-locarno.com

この前にはパブリックコメントも求められていたわけですが、実際に燃え上がったのはこの半年後ぐらいでしたねぇ。そして、現場レベルでやっと話題になり出したのが今から二年くらい前。

www.s-locarno.com

ここでは「論理国語」と「文学国語」の心配をしていましたが、先に「現代の国語」と「言語文化」で燃えるとは…。

本当に文学国語の授業数が減るのは高2以降?

本当に、文学を授業で読む頻度が低くなるのは、この教育課程だとおそらく4単位科目ゆえに選択の余地がかなり融通が利かなくなった「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の選択である。詳細は以前にこのブログでも書いたのでここで繰り返すことはしないが、4単位科目だと週4コマの授業になるため、組み合わせが非常に難しいことになるのである。高2,高3の二年間で4単位を履修すれば良いので、頑張れば3科目までは履修できるかもしれないが、実質的には2科目の履修にとどまる可能性が高いのである。

さて、その時に何が問題になるかというと、大学受験のことを考えると「論理国語」「古典探求」の組み合わせになる可能性が高く、「文学国語」を履修しない可能性が高くなるのである。つまり、これまで「現代文B」に掲載されていた「山月記」や「こころ」を履修しなくなるのである。

このような自体が明らかになって、「文学を軽視しては色々とマズい!」という話が新聞などのマスコミレベルで火が付いたこともあり、今度の学習指導要領はすっかり「文学を軽視して論理を重視する」というような言説が出来上がっているように見える。

実は、上で確認したとおり、必修科目の段階においては国語総合と授業時間数は変化していないので、本来は「文学を軽視する」だとか「文学を教える時間が削られる」という議論が、この教科書選定で出てくるのは、理屈の上ではおかしいのだ。

高校の国語の授業のこれまでと今

先ほどから現行の学習指導要領の必修科目を「国語総合」だと繰り返し書いている。しかしながら、多くの人は「国語総合」を受けたという記憶はなく、なんとなく「現国*2」と「古典」を高校1年生から受けていたという記憶を持っているのではないだろうか。

それもそのはずで、せっかくの「国語総合」という科目であるのに、多くの教科書会社は「現代文編」と「古典編」で分冊で作っており、場合によっては現代文と古典で授業担当者が分業してしまっているということさえある。

このような授業担当者の当て方になると、どうしても「読むこと」の授業が多くなりがちなのである。特に「古典」の授業の方では「話すこと・聞くこと」「書くこと」を行うことは難しく、「読むこと」が中心になりやすい。「古典」の方で「話すこと・聞くこと」「書くこと」をやらないからといって、「現代文」の方の授業を「話すこと・聞くこと」「書くこと」ばかりやっている訳にもいかないので、自然とそれらの授業数が押し出されていくのである。

今回の朝日新聞の記事の中で、単元学習や国語総合の在り方を大切にしたいと思っていた立場の自分からしてイラッとくることを一点だけ書いておくのであれば「文学も重視したい」という見出しである。「文学を重視したい」というが、授業数自体は変化していないので。「現代の国語」と「言語文化」に分かれたことで、「現代の国語」では「話すこと・聞くこと」「書くこと」をきちんと取り組まないと、授業を持て余すことになる。今まで「読むこと」を重視して追い出してきたこれら二つが戻ってくるだけの話である。

「話すこと・聞くこと」「書くこと」の能力を教えることが「文学を重視」しないことになっているような論立ては、生徒に今後求められる能力などを考えたときに、無責任ではないだろうか。

話題になっている教科書での文学教材の取り上げ方は、「読むこと」を丁寧に扱いつつも、ただの「読むこと」偏重にならないように、「書くこと」などへの配慮を見せた形になっていた。安易に「文学を重視したい」=「次期学習指導要領が文学軽視だ」という論法は、真面目に国語科と文学の扱い方に苦心している教員に対して失礼なのである。

もちろん、「論理と文学を分けるのは筋が悪い」などの様々なレベルでの議論もあるのだが、現場の感触としてはそういう大きな背後の話よりも、明日の授業としてこれまでと教科書が変わってしまうことに強い抵抗感を持っている……という印象である。

受験という大義名分

文学の授業を「現代の国語」に入れたい理由の一つとして、朝日新聞の記事では次のような現場の声を紹介している。

第一学習社によると、教員への聞き取りをする中で「受験を考慮すると『言語文化』で古文・漢文を省略しにくく、小説を削らざるを得ない。であれば『現代の国語』で小説を扱いたい」との声が多数寄せられたという。

(2021/09/12 朝日新聞 朝刊)

これは論理的におかしいのである。授業数はこれまでと変わっていない。もちろん、4単位が2単位へと分けられることで、弾力的な運用が難しくなるので、数字よりも指導は難しくなるのは間違いない。

しかしながら、受験を理由に「言語文化」から小説を追い出し、「現代の国語」で本来扱うべき事項を削るという運用は理に合わないのだ。

この理屈で行けば、全国の大学で小説を出題している大学は、計算方法にもよるが国公立で2割、私立では5%くらいである。この傾向で行くならば、高2以降は文学をやらないという理屈になってしまうのである。

受験を狙い撃ちされて、共通テストが大変混乱しているのも、現場の「受験」を理由科目選択や授業設計を考える傾向をよく分かっているようにも思う。

もう、いい加減、長くなりすぎたのでこのくらいで止めておこう……とても不毛な気持ちになる話題である。

本日のオチ

色々と国語科の教科書や「何を教えるか」ということについては、考えるべきことが多く、今のところはうかつなことは言えないという気分である。

今回の騒動一つとっても、色々な立場からすると見えることがだいぶ変わってくるのである。

なお、朝日新聞は社説にかつてこのような記事を載せていたことを紹介しておく。

(社説)高校の国語 文学と論理 境を越えて:朝日新聞デジタル

この記事の中では「自由な発想を大切にし、教材の範囲を窮屈に考えないようにしてほしい。とりわけ文科省には、編集現場の萎縮を招くようなしゃくし定規な検定をしないことが求められる。」(2021/09/13 19:50確認)と述べている。

社説で主張したとおりになったのだから、もう少し、第一学習社を援護射撃するような記事の書き方でもよかったのではないですか?などと思ったりもする。

とはいえ、この社説でもう一つ大切なことを書いており、

そもそも論理国語がめざすような思考力や表現力は、国語だけで養われるものではない。理科や地理歴史・公民などとの関わりも深い。高校教育全体の中でそうした力を養う方策について、議論を深めてはどうか。(同上)

悔しいことに、こういう議論が進まずに、教科書の教材だけで話題が賑わってしまっている。何が言語の力なのかということは大切ですね。

*1:この辺りの話は、国語科の教員でも明確になっていない場合があるので、あまり深入りしなくてもよい。つまり、何時間もかけて一つの作品を読む…ばかりが国語科の授業の読むでは無いのだ。

*2:この「現代国語」って言葉、学習指導要領から消えたのはもう大昔なのになぜか未だに残っている。不思議だ…。

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