ここ数日続けている、高校の新学習指導要領にまつわるエトセトラの第三弾です。
今日は少し視点を変えて選択科目の「国語表現」に関するあれこれです。
選択科目の「国語表現」がどうなるか
高校の国語科の科目構成は必修が「現代の国語」と「言語文化」であり、選択科目が「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」である。
どういう内容なのかのざっくりとした見通しは、学習指導要領解説に書かれている以下の表が分かりやすい。
(【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 P.67より。2021/09/15確認)
多くの人が注目して、そして大騒ぎになっているのが、この選択科目の構成である。いずれも「4単位」の科目設定となっているので、「文学国語」が履修できないのでは無いか!ということである。
この辺りの話は三年前に既に散々と書いて、そして、自分の実生活の周囲であまり面白くないことも多い話だったので、今更ここで繰り返して書かない。過去の記事をお読みいただければ。
さて、今日、話題にしたいのは今回の改訂の話題の完全に蚊帳の外になっている「国語表現」に関してである。
選択率は高くない様子
そもそも「国語表現」の影が薄い理由としては、採択率が低いという事情があるとは思われる。これも一概比較が難しいのだが、教科書の採択数で現代文Aと現代文Bの採択数と比較すると半分以下の割合になるので、あまり採択率は高くないと考えて良いだろう。
あくまでカリキュラムを決める前の教員向けアンケートの結果であるが、大修館が以下のような調査結果を出している。
(大修館書店(2021)「新課程 国語履修パターン シミュレーション」P.1より。2021/09/15確認)
「国語表現」が含まれるパターンは相対的に少ないのである。
これは、受験科目として「国語表現」が含まれないことが多いために、進学校が「国語表現」を選ぶことが少ないという事情が反映されていると思われる。
「国語表現」はレベルが低い?
進学校が選択しないから「国語表現」が簡単な科目で、レベルが低いように思われることがあるが、そのようなことは全然無いのである。
個人的には内容としては、探究学習との相性が良いと感じるし、非常にスキルやパフォーマンスを伸ばすことに力を入れている科目なので、高次の能力育成に関わるし、指導事項も面白いと感じる。言語活動例もかなり挑戦的に見える。今後、教科書が出てきたときにどのような構成になるのかが一番楽しみな科目でもある。
余談であるが、「国語表現」という科目は意外と歴史が古く、他の科目が名前をマイナーチェンジしながら、そして今回の改訂で大きく変更した中で、しぶとく生き残っている科目である。
「国語表現」だけは53年改訂以降ずっと科目名としては(98年改訂で一瞬「国語表現Ⅰ」「国語表現Ⅱ」に分かれたが)残り続けている科目*1である。
細々でも続いていることで、実践も積み重なってきているし、言語活動例などを見ると良い意味で安定感が感じられるし、一方で挑戦的なものにも現実味があって面白い。
これだけしっかりとしたパフォーマンス、技能を指導することになるとしたら面白いなぁと思うのであるが……しかし、進学校を標榜する学校には人気が無いのである。
これも「入試」が理由なのであるが……「文学国語」が選ばれない理由と同じなのに、「文学国語」のことばかりを問題にしている状況は個人的にはなんだかな、というところである。
他の科目から抜け落ちたことが
今月の『教育科学国語教育』(2021No.862)で長田友紀先生が新学習指導要領の「話すこと・聞くこと」の「ものの見方・考え方」について、A型とB型に分けて以下のような議論を展開している。
これらB型は、「他者」や「自己」の「ものの見方や考え方」について言及したものである。昭和二六年版国語科学習指導要領以降、ほとんどの改訂版になんらかの形でB型は登場している。(中略)だが、今回の指導要領では、話すこと・聞くことからB型の「ものの見方」そのものが完全に消えてしまったのである。
(長田友紀(2021)「ものの見方・考え方」を広げ深め続けるために」『教育科学国語教育』No862 P.14より)
この指摘にはかなり刺激を受けた。
確かに科目ごとの指導事項を見てみると、非常に「自己」への言及は強くあるものの「他者」という観点が弱いのである。
例えば「論理国語」を見てみると、確かに「他者」という言及があるのだが、その「他者」が異なる立場の他者を想定し、反論や説得という方向で表現を考えるように見える。こう捉えると、確かに「他者」の余地がないのである。
しかし、こういう観点で「国語表現」を見てみると、「論理国語」などの科目の指導事項に対して、「国語表現」が他者の共感や同意を重視したベクトルであるように見えるのだ。
言語活動例を見ても、例えば「論理国語」の他者は抽象的で超越的な他者を相手にしているように見えるが、「国語表現」はインタビューなど生の他者を例にするものが多い。なるほど、「国語表現」の性格が根本的に「論理国語」とは違うというのはこういう点にあるかもしれない。
そもそも、「論理国語」には「話すこと・聞くこと」がないので比較対象としては相応しくないかもしれない。なお、「国語表現」には「読むこと」がない。
この差異のは「目の前にいる他者」を前提とした「国語表現」か、「他者が目の前にいようといまいが構わない」という「論理国語」という違いがあるようにも感じられてくる。
一応、「文学国語」にも言及しておくならば、ある意味で文学は究極的に「他者」を扱うものであるので、指導事項を見ると「作品の内容や解釈を踏まえ」という表現が多くある。「論理国語」が欠けてしまっている点の一部を補完するような関係にあるように見える。とはいえ、基本的には「話すこと・聞くこと」が無いのは「論理国語」とは同じであり、「他者」の在り方は比較的、遠くの存在なのだろうなと、思う。
近くにある、具体的な「他者」との関係を持つ「国語表現」の価値は、意外と、この先には重要なのではないかと思うのである。
続きはまた明日
「国語表現」の科目の中身や授業の可能性を書きたかったのに、そこまでたどり着く前に長くなってしまったので、本日はここまで。
明日にでも授業の話を書いてみようと思う。予告としては
これを使って授業したら楽しそうって話である。
*1:余談だが、「現代国語」は45年改訂まで。それなのに未だに「現国」と言われる不思議。89年改訂の時にのみ謎の「現代語」なる科目が出たが一瞬で消えた。