いよいよ色々な雑務が本日に終了。やっと気分は年末です。
色々な仕事が終わったので、眼鏡を新調しました。来週、引き取りだぜ、やっほい!
知識の差が広がっている
GIGAスクール構想が4月に始まり、2021年も終わりを迎えようとしている。
文科省から次の段階を見据えるような話題が発信され始めている。
誰がこの仕事をやるんだろう……と仕事におののきながらも、本当に学校にICTが当たり前になる状況が進んでいるのだと感じる。
しかしながら、実際の学校の様子を見ると、この一年の間にICTに対する態度は人によって大きな温度差があった。そして、その温度差と相関するように、知識の差も授業の幅も大きく広がっているように思う。
不易と流行という言い方で、守株するのも一面では理解できないことはないが、不易だけで授業が成り立つとも考えにくい。教えられる側の生活環境が変わっているのだから、教える側の都合だけでは成り立たないはずなのである。
ICTによいイメージがなく、授業で使うことがないのであれば、当然ながらICTに対する知識も技術も伸びることはなく、日常的に使っている人とは差が開くばかりである。
もちろん、学校自体が合理化の流れでどんどんICTを使う状況に追い詰められているので、使いたくない、使わないという立場を取ろうとしても、いざとなれば、使わざるを得ないのである。
その時に、普段、使っている人が色々な人を助けることになるのだが、その不公平感は確かにある。使える人は、ただ、得意だから使えるのではなく、使うための試行錯誤によって、ある程度の納得をしたからこそ使えるのであって、ラクをして身についたわけではないのだ。そういう知識にタダ乗りするのは、なかなか悪辣に感じる部分もある。
しかし、それでも知識と意欲があるならば、それを共有しなければいけないのだと思うのである。
知識でマウントを取る無意味さ
こういう時代であるので、知識を持っているということは周りからの信頼を得ることも出来るし、自分で好きなことを選ぶような立場になるチャンスを得ることが出来るかもしれない。
まあ、要するに何か気に入らないことがあれば、自分の持っている知識で相手を論破するという手段を取ることが出来るだろうということである。
まあ、使えるようになるまでに非常に苦労をしているのだから、そのくらいのメリットを手に入れても良いじゃないかという気持ちもよく分かる。
しかし、だ。
それでも、やはり周りに対してそういうマウントを取ったらいけないと感じるのである。
学校で生徒を育てるということは、一人ではどうにもならないのだ。使えること出来る人が増えることで、圧倒的に効率が上がるのだから、自分のこだわりを脇に置いて、どうしたら、見方が変わってくるのだろうかということに注力したいと思うのだ。
でも腹は立つ
そんな大人な意見を述べてみても、実際は腹が立つことの方が多い。
日々、修行なのである。