ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

当たり前ができるまでの苦労

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本日でリテラチャー・サークルに目処を付けました。

教室にいる一人一人がちゃんと自分の考えを持って、その場に「居られる」ことの重要性を感じます。

結果だけ見れば、大人が期待する水準の当たり前のことをやっているだけに過ぎないのだけど、この当たり前が成立するにはかなりの苦労があるのです。

他者がいる教室

何も手立て無く、「さあ、読んだことを話し合え」で話し合えるようになるのであれば、国語科の授業は要らないのである。

そりゃあ、教室の権力構造から言えば、教員が読めと指示をすれば空気を読む生徒が指示を忠実に守ろうとして活動に取り組み、あたかも話し合いをしているように見える空間は出来上がる。

しかし、実際に発言している生徒は一部であるし、教員に忖度しない普通の生徒はあっという間に活動を放り出すし、真面目にやろうとしている生徒は損をするし、あらゆるめんで苦しくなる。

そこまで厳しい状況にはならないとしても、生徒同士の対話の空気が非常に重苦しく、引きつっており、生徒も授業者も苦しくなる。

まあ……たまにそういう空気に鈍感な人も少なからずいると感じますが。

自分とは違う考えや表現の仕方をする他者がいる教室で、まだまだ伝えるスキルが成熟していない生徒が、話し合いを成立し、対話を行うことは非常に難しい。

他者と他者がそれぞれ平等に対話を成立させるためには、下準備の段階で相当に気を遣わなければならないし、丁寧に話し方や聴く態度を準備しなければいけない。

一年間を通じて、我慢強く失敗と敗北を乗り越えて、やっと充実した時間を歩み出せるという感じである。集団として育ってきたと思ったら、すぐに年度末で解散である。

当たり前のことでしかないけど

他者とケンカしないで話し合って、それなりに充実した結果を残すというのは、大人からすれば当たり前のことに過ぎないかもしれないし、大人からすれば今の子どもたちがびっくりするほど幼稚に見えるかもしれない。

それこそ、普段、国語科の授業で何をやっているのか、まったく役に立っていないじゃないかと叱られるかもしれないくらいに。

でも、その当たり前は自然に成り立つものではなく、我慢強く失敗をくり返して、方法を経験していく中で、やっと子ども達自身が手応えをつかんで、自律できるようになっていくのである。

実践について誰かに訊かれたときに自分が言えるのは、当たり前のことが当たり前にできるようにすることで精一杯だということだ。

自由闊達に文章を書けるようにはしてあげられないし、クリエイティブな創作ができるようになることもないし、達者な表現が出来るようなコツを教えることも出来ない。たまに、特異点のような生徒が強烈な個性を発揮して、非常に上質な成果を見せることがあるけど、それは決して自分の成果ではない。自分の教えていることは最低限の学習指導要領に書いていることだけなのだ。

それを超えて、自分のオリジナリティを主張しようとするのであれば、自分は少し調子に乗ってしまっている時期なのだろうと思う。

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