ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

年度末に考える

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すっかり申し込んだことを忘れていた研究紀要が先日届きました。

その中に千葉大学名誉教授の首藤久義先生の講話の記事が載っており、それを読んで以来、ずっと次年度のことを考えています。

教室内の優劣

今回の論考が掲載されているのは南部国語の会という国語教育研究会の研究紀要です。

内容としては以下の大会の記録です。

nikkokug.org

大会案内(終了済み)

その中の講話で首藤先生がお話しなさったことが掲載されていました。

上の大会案内を読んでもらえば分かるとおり、講話の題目は「優劣が気にならない評価」というもの。

ある程度、国語教育をかじった人であれば、「優劣」という言葉を聞いて、以下の大村はまの詩を思い浮かべるに違いない。大村はまの遺作詩である「優劣のかなた」である。

omurahama-kokugo.com

学びひたり
教えひたる、
それは 優劣のかなた。
ほんとうに 持っているもの
授かっているものを出し切って、
打ち込んで学ぶ。
優劣を論じあい
気にしあう世界ではない。
優劣を忘れて
ひたすらな心で、ひたすらに励む。

今回の首藤先生の講話の内容もタイトルから予期されたとおり、大村はまのこの詩を題材に、教室における評価のあり方について倉澤栄吉と芦田恵之助の論考や開高健と宮沢賢治の作品の中での評価観と関連させながらお話しなさっている。

教室の子どもたちが「評価」に追い立てられてしまっている苦境を捉え、子ども一人一人に敬意を持って肯定的に受け止める教師のまなざしのあり方を見事に述べられているように感じる。

今の学校の現実は、「評価」「評価」と、評価を強調し続けて、子供の優劣をことさら強調して子供を学習に追い立てたり、優劣や順番を、学習の動機づけに利用したりしているように、私には見える。

(『令和3年度 第23回国語教育研究会 研究紀要』P.112より)

次年度から高校でも観点別評価が始まるが、結局、いかにして評定をつけるのかという話ばかりに終始しているように思う。そして、その「優劣」をつけることが公平な教育のための責任であると言わんばかりの主張も耳にする。大学の推薦入試に使うのできちんと優劣をつけてやることが公平で生徒の為なのだという意見まで言われたことがあるので………厳しい気分である。

優劣で学ばせていないか

子どもたちも人間であるので、誰かと比較して自分が良く出来ているということが学ぶことのモチベーションになるのは事実である。

しかし、問題なのはその競争意識を教員が煽って授業の動機づけに利用するというのは、あまり望ましくないのだろう。

それぞれの教室には、それぞれの事情や子どもたちの事情があるので、競争という手段が上手くいく手段になる場合もあるので、一概に否定することは出来ないのだが、いつまでも「競争」という手段でしか学びを語れなくなってしまうことは望ましくないだろう。

しかし、「競争」や「比較」というのは根深いもので、最終的には5段階評定を付けることや観点別評価をつけることが頭の片隅にあると、子どもたちの学びに対して無意識に比較して評価してしまっているのではないかと自問せざるを得ない。

本来は絶対評価なので、子どもたちがどれだけ学び、成長したのかということを丁寧に見て、次の学びのために寄り添っていくことが求められているのは分かるのだが、色々な大人の都合が頭をよぎると、学びそのものを見ているのだろうかと不安になるし、実際、学び自体に目を向けることが出来ていないのではないかと思う。

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