こんな記事が一面に出ていた。
ICTなら何をして叩いてもよいと思っている読売新聞だなぁという感想以外出てきません。自分の聞きたいことしか取材しなければ、自分の言いたいことしか記事に書かないマスコミにはウンザリするところです。
分かりやすい反論は
こうして学校からICTを排除しようとすることの問題点は豊福晋平先生が端的にTwitterで解説してくださっています。
いじめの大半は管理側の死角で起こる。デジタル領域の事象は、より過酷で大きな影響を及ぼすこと、デジタル足跡は消せないこと、を念頭にアップ・スタンダー指導を徹底する必要があります。あと、校内からオンライン・コミュニケーションを排除しない、というのもポイント。https://t.co/VRMeLD5Sun
— 豊福晋平: TOYOFUKU Shimpei (GLOCOM) (@stoyofuku) 2022年6月5日
学校がトラブルを恐れて、校内から公式のデジタルコミュニケーションを締め出せば、いじめは監視指導が及ばないプライベート空間で起こります。これはわざわざ死角を作っておいて、切り離すようなもの。
— 豊福晋平: TOYOFUKU Shimpei (GLOCOM) (@stoyofuku) 2022年6月5日
古い情報モラル教育には、校内の公式オンライン・コミュニケーションの前提がありません。「ネットは校外の厄介事」として、学校と家庭とを分断する方法では、意図的に放棄された死角でいじめ行為はエスカレートします。。https://t.co/3u5CZHx1Lm
— 豊福晋平: TOYOFUKU Shimpei (GLOCOM) (@stoyofuku) 2022年6月6日
読売新聞の主張が、面倒ごとを学校に持ち込まないで切り離してしまいたいという立場にはウケがいいだろう。意地悪な言い方をすれば、好んで新聞を読むような年齢層がどういう年代なのかという話である。
こういう事例をセンセーショナルに書けば、一般の世論形成を促せると思っているのだろうか。ヤフーニュースのコメント欄を見ると、意見としては割れている部分がある。しかし、積極的に社会の意見を粉々に割って、そのツケを現場に負わせるような記事の書き方は理性的と言えるかは疑問である。
いずれにしても、ICTをどうしたいのかということにポリシーが見えない記事である。叩きやすい嫌いな物を叩くという記事でしかないという印象である。
そもそもの全体となる数字を疑う
マスコミが数字を強調するときには、割合を確認し、割合を強調するときには実数を確認するのは基本中の基本の戦略である。
実際に今日の見出しについて見てみよう。
GIGAスクール構想で導入された端末の台数は約800万台である。その数字に対して例えば「全国の小中学校に1人1台配備された学習用端末を使ったいじめ」が「47件」ということをどう評価するべきか。
また、一般の「いじめ」の認知件数は年間で「50~60万件」がここ数年の数字であることを前提とすると「47件」をどう評価するべきか。
無論、いじめというものは「0」であるべきである。しかし、嬉々としてネットトラブルという相対的には少ない数字を過大に喧噪しようとするのであれば、それに対しては「本当にその批判は妥当か」という反論はせざるを得ない。
逆に「通信機能使い「ばか」「死ね」と中傷、顔画像に落書き…学習端末いじめに教員の目届かず」*1の中で出てくる謎のアンケート結果「学習端末を使ったネットいじめはあったか」については割合だけで実数を出していない。また、調査方法についても何を使って回答させたのか、どういう属性に回答させたのかすらも分からない。こういう不誠実なアンケートの数字がどれだけの意味を持つのか?
また、こういう数字が上がってきた時に、何のための数字の把握なのかということも注意して考えたい。もちろん、いじめなんて0であるべきである。しかし、こういう数字を見たくないが為に、学校からICT端末を切り離してしまえば、アンケートの数字は0になっても、潜在化して暴発するような事態になるとは考えられないのだろうか…。
どう向き合うべきか
「通信機能使い「ばか」「死ね」と中傷、顔画像に落書き…学習端末いじめに教員の目届かず」の記事で指摘されていること自体は、学校現場にとっては頭の痛い話であるし、対応を考えなければいけないと問題意識がある話ではある。
子どもたちは学校よりも前にICTと出会ってしまっている部分もあるし、ICT端末が持ち込まれることで新しく顕在化(発生ではない)する問題に向き合わざる得なくなる部分がある。
だからこそ、どうすればよいか、ということを今、我慢強く取り組んでいるところである。
その意味では、末尾の千葉大学の藤川先生のコメントにもやや疑問が残る。
児童生徒のネット利用に詳しい千葉大の藤川大祐教授(教育方法学)は、端末の普及でスマホを持たない子供にもネットいじめが広がったとみており、「使用を制限しても子供は抜け穴を探す。端末の使い始めや長期休みの前などの情報モラル教育に力を入れるのが有効だ」としている。
(https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20220606-OYT1T50000/より。2022/06/06 20:50確認)
この手のマスコミのコメントのまとめ方は恣意的になるので、藤川先生の真意とどこまで合致しているのかは分かりませんが、「端末の使い始めや長期休みの前などの情報モラル教育」は根本的な解決にはならないでしょう。
時々、思い出したかのようなタイミングで単発で行う「説諭」が、圧倒的に毎日使うようになっている道具の指導として適切ではないのは火を見るより明らかであろう。
一人一台端末である以上は「毎日使う道具」として、我慢強く継続的に、どう使うことが相応しいのかということを指導し続ける必要がある。単発で思い出したかのような指導では足りないのだ。
日々のためのデジタル・シティズンシップ
やっと世の中にデジタル・シティズンシップ教育という言葉が広まってきている状況であるが、まだまだ言葉だけが先行していて「どういうことか?」という理解が広まっていない。
両論併記で構わないので、もう少し、学校や子どもたちが自律して、問題解決に挑戦していく過程を見守って貰えないだろうか……などと思うのである。
これは婉曲した言い方である。
本音を言えば「分からないなら黙っておけ」である。
*1:余談だが、このタイトルは現場に対しても「指導力不足」と石を投げているタイトルである。目が届かない教員が悪いという印象を与える。自分たちがポジションを示さず、あくまで悪いのは教員という姿勢であり、ICTも教員も悪だから叩くのが正義という姿勢が感じられる。