情報モラルが注目され、そのための授業がイベントとして何度も行われる季節だなぁと思います。
しかし、本質的に禁止と制限で対処していく情報モラル教育の手法では、一人一台端末時代には厳しいように感じています。
デジタル・シティズンシップ
一種のバズワードになりつつあるのだが、情報モラル教育でカバーしきれなかったことを含め、授業観の転換と合わせて合理的に一人一台端末という事態と向き合うならば、デジタル・シティズンシップ教育なのだろうと思う。
デジタル・シティズンシップ教育が「自律を育てる」という側面があるため、アクティブ・ラーニングと同じく「放置」と「放任」を「自由」と混同して、とんでもないものだという批判も出つつある。例えば次の記事のコメント欄はまさに誤解の積み重ねである。
ネット利用に関して、特に小学生の段階で、なにもかも制限しないということについて、保護者側にもいろいろな考え方があると思います。
(コメント欄より:2022/06/07 20:50確認)
などはまさに典型的な誤解でデジタル・シティズンシップ教育では制限すべきことやフィルタリングすべきことはきちんと行う。
その上で様々なデジタル上の生活の出来事についての対話を重ねていくことになる。
やはりCommon senseの資料が最も分かりやすいだろうと思う。考え方や家庭へのメッセージなど、あらゆる面で対話と巻き込むことに軸足が置かれている。
ちなみにオンラインコースを受講して、授業実践をするとCommon Sense Educatorの資格を貰えます。自分もこの資格を今年取りました。
我慢強く対話を重ねる
デジタル・シティズンシップ教育の中核には「対話」がある。対話を重ねることで教室文化に安心と安全を育てていき、その中でデジタル上の様々なチャレンジをすることに価値があるのだ。
だからこそ、様々な端末活用の場面を取り上げて、自分ならどうする、自分は課題にどのように関わっていくのかということを丁寧に語り、確認していくという作業が重要になるのである。
そういう我慢強さを要求されることに、今の学校が耐えられるのだろうか……?という疑問が出てくる。しかし、次期学習指導要領に向けて、デジタル・シティズンシップ教育の要素が各教科に盛り込まれるという方向性が示されている。
https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/saishu_print.pdf
果たして上から降りてきた形でシティズンシップ教育はありえるのだろうか。
内発的に変化していくだけの余裕があるだろうか。
まさに今が分水嶺であろう。