ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

遠くにある授業

国語科教育界隈でこんな記事が話題になっている。

kazakoshi.ed.jp

風越学園の甲斐利恵子先生の実践についての記事である。

アイキャッチに書いてあるタイトルの通り「東日本大震災」を題材とした単元学習の実践である。

「語り継ぐ」という行為そのものが生み出すものは何かを知りたかった。他者の体験を自分の体験として語ることは可能なのか。そもそも「語り継げた」とはどういう状態のことか。語り継ぐことによって子どもたちは何を手にするのか。何一つ確かなことがないままではあったが、挑戦することにした。

https://kazakoshi.ed.jp/kazenote/now/24133/より。2022/06/27 21:00確認)

まっすぐに国語科という教科に対峙しているからこそ出てくる問題意識と授業づくりの目標なのだと思う。

自分には手が届かない

この甲斐先生の実践記事を見て一番に感じたことは絶望感である。授業に対する絶望感ではない。自分の教育というものに対する才能のなさ努力の不足に対する絶望である。

このレベルの問題意識と重さの授業に自分が足を踏み入れる勇気も無ければ、そういう鉱脈に授業を見つけていく嗅覚もない。

国語科においては伝説級の教師である甲斐先生と自分を比べること自体もおこがましいのだが、自分が同じように今後、経験を積み重ねたとしても同じような授業を生み出せることが出来るかと言われると……おそらく無理だろうと思う。今の自分の歩いている道の上には、こういう実践を行うだけの可能性が見えない。

題材がセンシティブなものであるからこそ、力を持つ単元ではない。国語科と、言葉と、子どもたちとの向き合い方の覚悟の差とも言うべきものを感じてならない。

もちろん、風越という土台があるからこそ、他の実践者では手の届かないような位置にまでたどり着いている部分は確かにあると思うが、それは、本質的な話ではない。子どもたちの生活する環境にあるものを全て活かして単元を作り込むのは、単元学習の実践者であれば当たり前にやることだ。

たとえ、手持ちの手札が足りないとしても、言葉に対して、題材に対してまっすぐと向き合う視点を持てる実践者であれば、そこでしかできない実践が出来るはずだ。

残念ながら、自分にはそういう視点が著しく欠けているのだ。その視点を持つことがおそらく今の自分の歩み方では永遠に出来ない気がするのだ。

我慢強く向き合うこと

子どもたちの言語生活をどう考えるのか、そして子どもたちを取り巻く社会のあり方をどう考えるのか、そういう途方もない挑戦をしつづけることでしか見えてこない景色がある。

自分の普段の授業がどれほど言い訳を並べてラクをしているのだろうかという気持ちが強い。高校生というほとんど大人である生徒達と作り出せる実践は、もっと厳しく、高度で、切実な単元に挑戦できるはずである。

色々なしがらに絡め取られすぎなのだ、自分。

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