ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

読解力って…

炎上商法に手を貸す気は無いのでリンクを貼ったり発言を引用したりはしない空リプを繰り返すことにする。

まあ、そういう記事だと思って読んでください。

叩くばかりに意味は無い

教育の現場において子どもたちの読解は、時に授業準備では思いつかないような読みが出てくることはままある。

(子どもの発言に驚かされてから調べ直してみると、少数ながらも同じような例が見つかることもあるので教材研究って沼ですよ…)

その読みが突拍子のないことは珍しくない。決してふざけているわけではなく、本人はいたって真面目なのに大人から見ると不可解な言葉が出てくることは稀ではない。まあ、ふざけてトンデモナイことを言ってみようとしたり授業への反発から困らせてやろうという意図のことを発言したりすることもないわけではない。

様々な発言が出てきて、その一つ一つを丁寧に対応するのが教員の仕事である。

時には子どもの発言をたしなめることも必要にはなるし、明らかな誤解に基づくものについては読みの修正を促す必要がある場合もある。

ただ、子どもたちの読みに対して脊髄反射のような反応をして、面白がったり針小棒大に語ったりすることは、大人のする仕事ではないだろう。

子どもたちの発言には、子どもたちの思考がある。大人が誤りだと思っても、子どもたちなりの合理性を持っていることがある。たとえば、

 

 

では、子どもたちの言い間違いや明らかな誤解を取り上げて題材にしているが、それは子どもたちへの嘲笑のために行うのではなく、一つ一つの現象から子どもたちの見ている世界に迫ろうという試みである。

教育の現場に対する教訓として読むのであれば、大人が不可解に思うことであっても、ちゃんと子どもたちなりの合理性を持っているからこそ、その理屈をちゃんと理解して、指導のあり方を考えなければならないということである。無碍に貶めることでどれだけネガティブな結果になるか…という怖れを常に持っていたい。

 

 

最近紹介したこの本も話は同じだ。

大人が当たり前だと思っていることと子どもたちの考える合理的な世界のズレに教える側が気づかないと、いつまで経ってもすれ違い続けるだろうし、下手すると子どもの学ぶ意欲をそぎ落とすことにもなる。

教えることは誤りを正すことでもある。だからこそ、安易なダメ出しになってはいけないという自覚を持つことは、教育に関わる最低限の敬意だろうと思う。

読解力という言葉は難しい

PISAショック以来、ずっと読解力が課題であるといわれてきたが、結局、一般的な合意は見ない。

国語科の学力観の変遷とも関わる話なので、「読解力とは何か」ということは、それを論じるだけで卒業論文の一節くらいにはなる。本気で追いかけるとなると一冊の本になるくらいにはなる。

 

 

一方でRSTみたいな新しいタイプの読解力の話も出てきているし、非常に複雑で論点がはっきりとしないのが「国語力」「読解力」の類いである。

「書いてあることが分かる」という単純な定義ですら、中身は非常に複雑だ。

だからこそ、一つ一つの「読める」ということを教育でどのように「学力」として教えるかについては、かなり細々と工夫がされているのだ。

 

 

買えば分かるけど、この本は字が細かい上にびっしりと詰まってこのページ数である。本当に「読解」するってどういうことかを突き詰めるのは難しい。

さらに、今回の炎上の話などになってくると、「読解方略」のようは話も問題となってくる。

 

 

様々な角度から一つ一つを丁寧に焦点化して練習しないと、決して子どもたちの力には繋がらない。

だからこそ、時間もかかれば慎重にまどろっこしいと思うような作業であっても丁寧に積み重ねるのが授業なのだ。

あらゆる教室や授業の文脈を見ないで論じられる話ではないのだ。

読解力を批判するならば…

子どもたちの論理性や読解力について、主観的かつセンセーショナルに煽るような書きぶりをすることで、世間がどのような反応をするのか、その結果、現場に何が押し付けられるのか、そして、教育を受ける当事者の子どもたちにどのような「余計な」影響を与えるのか、そういうことを予想する力は持っていてもらいたいものである。

人の心や社会の動きを読解できる大人なのだから。

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