日々、色々なことに忙殺されるのが教員という仕事。
しかし、勉強をすることを止めてしまうと、授業があっという間に陳腐化する。
辛辣な言い方をすると、勉強を止めた授業は教える技術とは無関係に、新鮮さを失ったような印象を受ける。
教える技術があれば授業の形は整うし、生徒だってちゃんと学ぶ実感を得られる。
それでもなお、学ぶことが停滞している授業者の授業は、ちょっとしたところに「停滞」の気配を感じるものである。
質も量も足りないとしても
現実問題として、非常に忙しい日々を生活するのが教員である。
長期的なビジョンよりも目の前の仕事を処理することに頭を使いがちである。場当たり的な処理をしているから、雑な作業になるんだよ……と当事者でなければ文句も言えるが、実際に問題に追われる立場になったら、それどころではなくなる。
勉強を毎日続けて授業に臨むというのは厳しいのだ。
しかしながら、それでもなお泥臭く勉強を続けるべきだ。質も量も保証できない、細切れの勉強だとしても、ちょっとした時に本を開く習慣や、新聞の一面を眺めるだけでもいいから手に取るだとか、授業のアイデアを誰かに聞いてもらうだとか、そういう小さな歩みを止めない努力は、過小評価するべきではないのだ。
世界は素材にあふれている
自分が国語科だからそう思うのかもしれないが、基本的に自分の日々の生活で目に入るものは全て国語の授業になると感じる。
ただ、自分のアンテナの感度が悪いと、とてつもなく面白い題材をスルーしてしまうのである。
国語科の授業は当然ながら言葉が対象である。だから、目に入る全てが言葉で書かれている以上、どこにだって授業のヒントは隠れている。
そういう授業の手がかりを見つけようとして、色々なものを手に取ろうとする姿勢を持ち続けることは、自分の課している勉強のルールである。
根本的には色々な知識がついてこないと、そもそも発見することができないのだけど、それでも何とか面白いものを見つけようとするものの見方の練習が自分の最低限の勉強だと思う。
本に始まり本を続ける
時間が無い、読めなくて苦しいと思いつつも、結局、最後は本に立ち返って読み続けるしかない。
自分の目が、体力が、頭脳が、人よりも丈夫であれば、もっと無理ができるのにと思うことが増えた。やりたいことに対してじっくりと読む時間が減っている。
ただ、我慢強く、日に数ページしかめくれないとしても、続けることでしかできないことがあるのだ。