教員の仕事は多岐にわたる。
だからこそ、公立であれば手厚い(お節介ともいう)研修が定期的に用意されているし、独り立ち出来るようになるまで授業づくりについても色々な人が支援してくれる。
だから、ずっと学び続ける仕事が教職でもある。しかし、その学びは今居る場所からの逃避のために行うべきではないのだ。
出来ないことの多さが辛い
現場に放り込まれた若者が何が辛いかと言えば、自分が出来ないことや分からないことが多すぎて、自分を正しく認識できなくなることが辛いのである。
自分がいてもいなくても同じような立場に置かれることは辛い。
自分がよかれと思ったことがかえって悪影響を引き起こすような結末を引き起こしているような気分になってくる。
何もできないからだんだんと萎縮して、行動が出来なくなってくるのである。
周りに聞いて、少しずつ仕事を覚えるしかないところであるが、とかく職員室は慌ただしい。自分なんかが声をかけたら仕事の邪魔になるのではないかと、だんだんと萎縮していく。
本質的には聞いて、頼って、学ぶしかない。
なかなか実践するには精神的なハードルは低くないけどね…。
逃げ出すための学びは活かせない
だから、必死になって色々なことを学ぼうとする人も少なくない。
必死にならなくても嵐のように出来ないことが過ぎ去っていく場合もあれば、周りから期待されなくなって仕事が減るという場合もある(辛辣なことを言ってしまった)。
本当に真面目に「できない自分」が嫌になって、何とか色々なことを学ぶことで、自分の置かれている立場から抜けだそう心意気、それ自体は前向きで好ましい。
しかし、長期的に見たときには「ネガティブなものを避けたい」という動機での学び方は、やや難しさがある。第一に長く続かない。そして、アウトプットされるものも苦しい。まったく面白くないのだ。
学ぶと言うことは教えると言うことと表裏一体である。だからこそ、苦しさからの逃走としての学びという経験は、教えるという仕事にはなかなか上手く生かせないように思う。
やってみたいのために学ぶ
学ぶことが魅力的に映るのは、学ぶ本人が楽しそうにしているからだ。
決して、共感しているのは苦行から逃れようという姿勢ではない。
また、自分自身が継続して、続けることが出来るのは、結局自分が楽しい思うことだけ、やりたいと思うことだけである。
自体はそう簡単に好転しない。自分で変えられる要素もある程度はあるかもしれないが、多くの場合は自分ではどうにもできないような外的な要因に振り回されている場合が多いのだ。
だから、学ぶという手段を逃走のために使うのは、禁じ手とは言わなくても勿体ないと思うのである。
学ぶことに使うことができる時間は多くない。
開き直って、面白いことに学びの方向性を振ってしまっても、その方がかえって色々なことが好転するのでは…?などと、このくらいの歳になって自分の仕事が落ち着いてくると思うのである。