そろそろ2学期もカウントダウン。
2学期のうちにやっておく仕事は2学期のうちに。そして人に依頼しておくべきことは年内に…。
自分の授業だけではなく
自分の授業が上手くいっていればそれでよい、という働き方は20代で終わりにするべきである。
教員同士の授業力にはムラがあるのは仕方ないところであるし、授業が思い通りに行かない要因はいつでも自分ではコントロールできないところにある。今、自分の授業が上手くいっているのだとしたら、それは運が良いのである。きっと誰かが準備してくれた学習環境を上手く活用して授業が出来てるに過ぎないのである。
例えば「話し合い」一つ成立するかどうかは、自分の授業である程度の指導は出来るとしても、根本的にはそのクラスの学級経営が上手くいっており、人間関係がある程度安定的だから出来るわけで、そもそも人間関係が崩れている場合は、授業で交流は難しいのである。
これは極端なたとえ話であるのだけど、自分の授業が上手くいっているのは自分が上手くやっているからではない。誰かが自分の授業を支えてくれているからである。担任から一言「先生の指導をちゃんと聞けば大丈夫だから」とあるだけでも、全く授業のやりやすさなんて変わるものである。
だから、いい歳になったら、学年全体、学校全体のことを考えてふるまうべきで、その観点から考えれば、自分の授業の良し悪しだけではなく、自分がそれぞれのクラスをどれだけよい関係性に出来るか、学びに向かう姿勢を作れるかということが大切になってくるだろうと思う。
授業の中でわざとらしくやる必要は無いが、ちょっとした言葉かけや配慮を変えるだけで、生徒の姿勢や心理は変わるだろうと思う。
ちょうどこんな本を読んでいるので、そんなことを思うのである。
「居場所」という言葉もいろいろあるが、その場にいても大丈夫だという感覚は、色々な面で落ち着いた環境を生み出せるだろう。
同僚たちと
自分一人でそんなことを考えていても仕方ない。味方によっては尊大で傲慢である。
本気で生徒の学ぶ環境や姿勢を整えていこうとするのであれば、横で組んでいる先生方ととにかく丁寧に「どうしたいのか」ということを考えていかなければいけない。
極端な例を出せば、生徒の突飛な行動に対して一人は何も指導をせず、別の一人は厳しく指導をするのでは……かえって生徒は混乱して嫌な感情を抱くだろう。
どういう状況を作りたいのか、どういう子どもたちの関係性であって欲しいのか、そういう青臭くて地味なことをちゃんと打ち合わせて、議論していかないといけない。
ただ、そういう思いを共有するということに、なかなか当事者意識を持つのは難しい。意識しないでいると教員は個人営業主の感覚になりがちである。
そういう場をどうすれば作れるか……なかなか難しい。