ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

乱れやすい時期にこそ

新年度が始まって三週間。

皆様はいかがお過ごしでしょうか。学校では授業も安定してスタートしているところでしょう。早ければちょっと嫌な雰囲気なども出始める時期であったり…。

この仕事をしていると何でも「始まり」は大切だと思って過ごしているものだ。この数週間の動きで、学級が上手くいくかどうかが決まる。そんな警戒をしながら過ごしているものである。

集団としての姿が見えてくる

このくらいの時期まで来ると、だんだんと集団としての姿が見えるようになってくる。一人一人が心配そうな顔をしてスタートした数日とは違って、クラスの中で仲の良い友達を見つけて色々と生活している。

そういう姿を見ていると、だんだんとそれぞれのクラスの雰囲気が見えてくる。

不思議なもので担任に似る傾向にあるように思う。おおらかで余裕のある担任のクラスは生徒も余裕があるように見えるし、生徒に対して厳しい態度の担任のクラスは割と周りに対して規律を守るように言うような傾向が見えるような気がする。

経験の浅い担任でも、しっかりと独り立ちして担任を回せるのは、子どもたちが子どもたちなりに協力してくれているからである。自分の指導力で回っているなんて思わない方が良い。

自分たちの生活の場所であるクラスを少しでもよくしたいと思うから、スタートは協調的である。でも、クラス自体に子どもたちが期待しなくなると、自分の利益を最大化するために好き放題な行動を取るのは当然である。大人だってそうする。

どのタイミングで何を間違えると、子どもたちはクラスに期待しなくなってしまうのだろうか。それは自分にはよく分からない。そういう薄氷の上を歩いているという自覚がある。

幸いにして、今年も今のところは平和に過ぎていく。

もしかすると、自分の場合、自分がドライな性格をしているから、クラスのあり方も割とお互いにドライだから、はじめから期待値が低い状態なのかもしれない。だから、簡単に期待を超えられ、落ち着いていられるのかもしれない(笑)。

丁寧にそこにあるということ

学級集団であることを強調しすぎることは、今の自分の気分には合わない。もっと緩やかに好きなところに行けた方が健全だろうと思っている。今の「学級」という空間は窮屈で動きにくい。

ただ、そういうシステムの中を生活して生きているのだから、いかにお互いに無理のない関係を保ちつつ、自分たちが自分たちの生活の担い手であるという気持ちを持って生活してもらえるか、そういうことを考える。

今の自分の手札は、丁寧に「その場を共有すること」の意味を語ることである。コロナ禍を経て、場を共有することの意味を思うようになった。だからこそ、その場にいるということをきちんと語ろうと思うのである。

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