読書は小学生の頃はたくさんするのに、思春期の年代になるとだんだん離れていく。そして大人になったら読書が大切だと言いながらも読書が出来ないという状況が続く。
なかなか厄介な代物なのだ。
個人的には一人で好きな本を好きなように読めるような習慣を持たせて高校をから送り出せれば、自分の教育はある意味で役に立てたと思うくらいには、ハードルが高い。
本を読むには忙しい時代
本を読むことは大切だと言いながらも、なかなか本を手に取ることが難しい時代になっている。
単純に考えても、本以外にやらなければいけないこと、見てみたいことが多すぎるのである。本は読者をがっちりと拘束するメディアであるので、何かをしながら読書ということはかなり難しい。
忙しい時代だからこそ、スピード感から降りて心を落ち着けるための読書には価値があるのだけど、一方で生活の急流から抜け出せなから本を読めないという事情もよく分かるのだ。
国語の教員をやっているのに、本を読むことができない日がある。読もうという気持ちが起きない日もある。
気ぜわしく色々なことに関わっていると、どうにもこうにも本を手に取るハードルが上がるのだ。
積ん読も大切だ
忙しい時代だからこそ、積ん読も大切だという話はこんなPodcastで紹介されていた。
Voicyでも有名な荒木さんの登壇回ですね。さすがに読書家という含蓄のある言葉。
読書量自体の少ない我々は積ん読していても上手く機能するのかは不安はある。すでに深く蓄えられたものがあるからこそ、威力を発揮するものは大いにある。蓄えのない自分は…。
読書のハードルを下げよう
忙しい時代に苦行のように読むのも厳しい。
まずは手に取る本の数を増やすところからでよいと思うのだ。Twitterを眺めるように、パラパラを目次から眺める、挿絵だけ眺める。
そういう読書でまずはいいのではないかと。
そのために、国語の授業でも何でも通読精読しろってばかりやっていても嫌になってしまうのかもしれないよなぁ……どんな読み方をしてもいいけど、ちゃんと力のつくあり方ってどんなものだろうか。