ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

仕事と授業の学びの優先度

今の高校生は忙しい。

学習指導要領の指導事項が増え続けていることもそうだし、探究など授業外に広がる学びについても積極的に価値が見出されるようになったので、どうにもならないくらいに時間がないのである。

今の高校生の忙しさを見たときに、今まで学校の当たり前として言われてきたことが、決して当たり前ではない状況に来ているように思う。

もう、具体的に言ってしまうのであれば、部活動のあり方や意義は曲がり角だろうと思う。

聖域ではない

部活動の議論が感情的にならないで、合理的にされていることを見たことがない。

そして、決して必修の教育課程ではないのにもかかわらず、妙な優遇のされ方をしているようにも感じる。

「学生時代に部活動を頑張った生徒が偉い」という物語や「生徒に親身になった恩師」という物語が、必要以上に重視されているような印象を受ける。

いつかの時代や、どこか必要な場所では、そういう物語が価値を持つ部面もあることは否定しない。学校であるものが必要とされるときには、いろいろなしがらみや都合があるのもわかる。

ただ、こと現代に至っては部活動以外の選択肢が、相対的に取りやすくもなっているし、そういうニーズも増えているのだ。

だから、いつまでも部活動がいろいろなものを抱え込んで、なにかにつけて優先されるような過去の仕組みは、相対化されていっていいのだろうと思う。

部活動に関わるお金を少し組み替えて探究や生徒の活動のための予算に充実させたり、本気で技能を競い合うような部活動だけではなく趣味のような活動も認めていったりという、部活動の棚卸しはしなければいけないだろうと思っている。

少なくとも部活動の大会を平日に行って平然と授業を公欠させるのが当然のような状態はもっと問い直されて良いと思うし、教員にしたって労働力として朝から晩まで部活動に指導や大会の雑用にボランティアさせられるあり方は、もっとちゃんと考えるべきである。

部活動だけが聖域であることは難しいだろう。今ある形を残す前提での議論に限界を迎えている。

部活動だけでなく、学校のあらゆるところでリソースが足りない状況において、部活動の維持だけが優先することは無理だろうと思う。

生徒のためと言わないで議論を

「生徒のため」はマジックワードである。

ある意味で「生徒のため」と言えば、無理をすることも美徳という物語に回収されてしまうし、既存のシステムを議論なく維持することが正当化されてしまう面もある。

本当に「生徒のため」というのであれば、「生徒のため」とは言わないで、持ち寄ることができるエビデンスと現実的なリソースを突き合わせて議論をするべきであるし、その議論にそれこそ「生徒自身」の発言をできるような機会を、議論の場に生徒を呼ぶことをするべきである。

「生徒の意見を聞いている」と言っても、一部の声の大きい生徒に注目しやすいし、教員は自分の意見を述べるときに、都合のよい生徒の意見だけをピックアップしがちである。

本当に生徒の声を聞いて、意見を反映させるのであれば、時間とコストをかけて議論を集めなければいけないのだ。

フォームだけ投げて意見を聞きましたというアリバイ作りも、生徒の声をどう扱いたいのかという姿勢に関わっているといえる。

選べる環境になっているかどうか

ここまで読んでもらうと、自分が部活動に対して嫌な思いを持っているのがよく分かると思うし、部活動を減らしていきたいというポジションで議論をしているのがよく分かると思う。

それは否定しないし、自分の仕事として大切にしたいことを守ろうとしたときに部活動はいつでも暴論をかざしてきたので、感情的にネガティブな印象しかない。

ただ、部活動だけを批判したいだけではなく、もう少し広く考えるのであれば、宿題の出し方だってそうだし、考査のあり方だって同じような話である。

生徒に選べる権限をほとんど持たせていないことに問題の根があるように思うのである。

選ばさせていると主張する大人が、自分の権威に無自覚に生徒に無言の圧力を迫っているような様子に割とうんざりとしているのである。

大人がもっと手放せるものがあるはずなのだ。そうして手放していくことでお互いにもっと生きやすいやり方があるのではないか。そう思わずにはいられないのだ。

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