国語科の教員としては、三領域「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」に対して自覚的になって、日々、ちゃんとトレーニングしなければなあ…と思っている。
ただ、実際に上手くいくかというと、全然、思い通りにならないことの方が多くて、自分の言語技術のつたなさにうんざりとするものである。
反復するしかない
トレーニングというものは、どんな種類であっても粘り強く反復を続けなければいけない。
一つやってみたからと言って、すぐに結果が出るようなものはほとんど無い。
何度も繰り返し繰り返し、地味なことをトレーニングするからこそ、気付かないうちに大きな結果が出るのである。
その意味では一番トレーニング効果が高いものは、継続できている習慣である。習慣として繰り返しているからこそ、自然と身体的にできるようなことは多いのだ。
「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」はいずれも身体との結びつきが強いからこそ、成果を得るためには身体に馴染むまでの長い時間が必要なのだ。時間がかかる割に中断してしまうと、すぐに感覚が抜け落ちてしまうことも厄介である。
どこにでもあるからこそ
国語を教えるためのトレーニングの題材は、国語だからこそどこにでも遍在しているのである。自分が感度を高めて引っかかっていけば、世界中の全てに言葉が満ちている以上、なんでも自分にとって意味のあるものになるのだ。
何が自分にとって意味があるものになるのかを目ざとく見つけられるかは、経験がものをいうところだろう。そして、そうやって何か意味のあるものを見出すことが得意な人は、おそらく授業づくりも上手なのだろうと思う。
まあ、毎日毎日、全ての言葉にこだわって生活をしていたら疲れてしまう。
しかし、こだわりを持たないで漫然と過ごしていたら、それは国語科の教員としてはちょっとものたりない。
言葉を教える立場にあるのであれば、何かを見つけたときに、ちゃんと立ち止まって言語化するという行為が必要だろう。
同じことを続ける意味
同じ習慣を続けることで、無意識でも色々なことが出来るようになる。
そういう無意識で出来ることが増えてこそ、自分に新しいことを見つけることが出来るようになるのだ。
読んだり書いたり…地味に同じことをくり返し続けることができるかどうかは、生成AI時代だからこそ重要になっている気もするなあ。