最近になって以下の記事が読まれることが増えている。
なるほど、高校2年の一学期の後半戦は、「山月記」の時期である。
定番教材の「山月記」は相変わらず、この時期に読まれているのだろう。
ただ、引っかかるのは何かと言えば、学習指導要領が変わって科目構成も変化して、教材の配列も微妙に変わっているはずなのである。
にもかかわらず、この時期に相変わらず「山月記」なのか…?
高校の文学教材は…
学習指導要領の改訂に伴って、高校国語科の科目構成も再編されている。
特に議論というか、炎上したのは「論理国語」と「文学国語」(「現代の国語」と「言語文化」もだけど)である。要するに「文学排除」なのではないかという批判である。
現場で授業をしていて、4単位科目になったことは取り回しが悪いなあとは思うことは多い。
ただ、「文学排除」なのかと言われると、非常に微妙なところである。また、「論理国語」が本来狙っていることを、学習指導要領の文言通りにきちんとやっているかというのも微妙な印象がある。
要するに、結局、大学入試を目的とした読解指導のような授業が進学校では相変わらず多いような印象がある(これは自分が進学校勤務なので、周囲から聞こえてくる情報もそれが中心だからである)。
その観点からすれば、そもそも「文学」の扱い方は、世の中が期待して騒いでいたような扱い方をしているかと言えば非常に微妙であるし、文学に関わる大人が言うようなことをそもそも文学教材の授業が目指しているかというと、乖離があるような気もしている。
まあ…要するに、国語のイメージが好き勝手に語られていて、それぞれの立場で好き勝手なことになっているなあ…と思っている。
ちなみにこの議論で「文学排除だ」と現場の教員がいうことに個人的に違和感があるのは、選択科目は学校で決めることができる点にある。「論理国語」ではなく、「文学国語」を選べばよいし、分割履修などで複数年で4単位ずつの単位を満たすことは、学校の裁量でできる。
ただ、現実的にそれをやらないのは、理系文系のコース分けであったり他教科とのコマ数の奪い合いであったり大学入試のことであったりと、国語科だけでは決められないしばらみがあるからである。
ただ、それでも「文学国語よりも論理国語」を選ぶのは誰のせいでもなく、その学校の責任である。選んだ、選ばざるを得なかったうえで、次の策を考えるしかないのであるし、価値のあるものを継承していくために、やれることはある。
まあ…4単位科目でなければ、もっと柔軟なやりようはあるのだけど。そもそも分けなければ…という議論もあるけど、それぞれの科目で目指していることが、それぞれに重要で、量が増えている以上は選ばざるを得ないことはある。
「高校の授業で論理を教えたり実用的な文章を教えたりするのは必要ない」という主張は、個人的にはこれだけAIやテクノロジーが問題となっている中で、ちょっと危うくないですか?と思うところである。
「山月記」のアクセス数増加に思うこと
あれだけ大騒ぎしたのに、相変わらず毎年6月になると「山月記」の記事にアクセスが増えることを鑑みると、どうも高校の現場は学習指導要領が変わっても、科目が変わっても、もしかしたらあまり教育課程、学習指導計画を変えていないのかもしれない。
どういう科目を選択して、どういう運用になっているかさっぱりイメージができないけど。
もし、仮に科目の目標だとかを考えず、とにかく帳尻を合わせて今までとできるかぎり同じようなことをしようとしている学校があるならば、自分はこうやって毒づくしかない。
「そういう何も考えない姿が狙い撃ちされたんだよ」と。
もっとよい関わり方はあるはずである。