栃木県立高校で撮影された暴行動画がSNSで拡散され、1億回以上再生される事態となった。県教委は「誹謗中傷はやめて」と呼びかけ、学校には200件以上の電話が殺到し、部活動の大会出場を辞退するところまで出ている。
この事件について、同業者として、そして日々デジタル・シティズンシップ教育に関わる以上、いくつか考えたことを書いておきたい。
SNS拡散という「やむにやまれぬ」選択
まず大前提として、暴行動画をSNSに拡散することは下策である。
それは間違いない。予想のつかない拡散力と威力を持ってしまうからだ。今回の事件でも、関係者の個人情報が出回り、被害生徒が通学しづらくなる可能性まで生じている。
記事中で弁護士が指摘しているように、拡散行為自体が名誉毀損などの罪に問われる可能性もある。
しかし…である。
拡散した人物が「第三者」だったとしても、その心理には同情する部分もあるかもしれない。
可能性として、自己防衛のために、やむにやまれず拡散するという選択をしてしまったとしたら。その気持ちは、理解できなくはない。
もちろん手段として正当化することは難しい。おそらく自分が担当の教員ならば厳しい判断を下すことになる。
けれど、「自分が危ない」「これを公にしないと何も変わらない」と思ったときの心理には、ある種の切実さがあるのだろう。
学校の限界
同業者として、学校が安全のために色々と苦心しているだろうことは想像がつく。
県教委の教育長が「これまでとは異なる対応がSNS時代に求められていると肌で実感している」と言っていると記事では紹介されているけど、これも正直な実感なのだろう。
ただ、ここで考えておかないといけないことは、学校は捜査するための権限と能力を持たないし、罪を裁くための機関でもないということだ。
記事中のスクールロイヤー経験のある弁護士が「新しい形の事案。対応がとても難しい」と述べているが、その通りである。現場で仕事をしていると本当に悩まされるだろうなって思う。
このような重大事案については、もはや学校が担うのではなく、正式な捜査機関が介入した方がよいのではと思うことが増えている。
あるいは、被害者が学校を介さないで直接相談できる仕組みが必要なのかもしれない。
学校という組織は、時に「内部で解決しようとする」力学が働いてしまう。おそらく、それが今までの常識だったから。
もしかすると、そういう構造が複雑さを増やしてしまっているのかもしれない。
「いじめ」というラベル
もう一つ考えさせられるのが、「いじめ」というラベリングの問題である。
県教委は「いじめに該当するかは調査中」としているが、この事案を「いじめ」として扱うことで、学校がこの件の全責任を負わされるような構造になっていないだろうか。
子どもたちの安心と安全に責任を持つのは学校の仕事である。それは疑いようがない。
しかし、SNSでの情報拡散、個人情報の流出、外部からの膨大な問い合わせ…こうした世の中の複雑さが増しているときに、すべてを「いじめ」という枠組みで処理しようとすることに、無理が生じているのでは?となんとなく感じている。
「いじめ」という言葉は、教育現場や社会に対してその事件を「学校が解決すべき問題」というメッセージを送る。
もちろん学校は全力で対応する。けれど、暴力事案、SNS拡散、捜査機関の介入が必要なケースなど、もはや「いじめ」という一つのラベルで括れないほど、事態は複雑化している。
自分は「いじめ」という言葉を使わない方がいいと言いたいわけではない。ただ、今回の件を見ていると、この「いじめ」ラベリングの仕方を見直す必要も出てきているのではないか…そう感じる部分もある。





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