ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

授業時数を削ってまで研修時間を確保する

文科省が「調整授業時数制度」の具体案を示した。

標準授業時数を一定範囲で削減し、その分を「裁量的な時間」として再配分できるようにする制度である。この裁量的な時間は「学習枠」と「研究・研修等枠」に分かれており、後者は「授業改善につながる校内研修や教材研究など」を対象とするという。

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一見すると、学校の裁量を広げる前向きな制度改革のように見える。しかし、よく考えてみると、これは奇妙な話ではないだろうか。

※まだ一次資料を読めていないので、あくまで新聞から読んだところの感想。

授業時数を減らしてまで研修時間を生み出す意味

教員が授業改善のための研修や教材研究を行うこと自体は、本来当たり前の専門職としての営みのはずである。しかし現状では、その時間を確保するために「授業時数を削減する」という手段を取らざるを得ないのだ。

これが意味するのは、現在の学校システムにおいて、教員が専門性を高めるための時間が構造的に確保されていないということである。授業準備、教材研究、授業改善のための振り返り――こうした営みは教員の仕事の核心部分であるはずなのに、それらが「授業時数を削減してまで確保しなければならない時間」として扱われている。

まあ…現場にいれば分かる話だが、教員の一日は授業だけで埋まっているわけではない(むしろそれ以外の業務が膨大…)。しかも、その時間は「空きコマ」という名前であっても実質的には仕事をし続けている時間なのである。

「学び続ける教員」という理想と現実のギャップ

近年、「学び続ける教員像」という言葉がよく使われる。教員は常に学び、専門性を高め続けるべきだという理想である。これ自体は正しい方向性だと思う。

しかし、その理想を実現するための構造が整っているかといえば、疑問符がつく。教員研修は増えているが、それは多くの場合、通常業務に上乗せされる形で実施される。

教材研究の時間も、授業準備の時間も、多くは教員の「善意と献身」に依存している実態だ。

今回の制度で「研究・研修等枠」が設けられたということは、文科省もこの構造的な問題を認識しているということだろう。しかし、その解決策が「授業時数を削る」というのは、本末転倒では…。

教員の専門性が弱まる背景

ここで考えたいのは、教員の専門性――ここでは学力や指導力と言い換えてもいいかもしれない――が弱まっているとすれば、それは個人の問題なのだろうか、という点である。

まあ、そうだ!!と言いたくなることも多いのだけど、でも、一方的に責められないという理由もある。

教員が専門性を高めるためには、学び続けるための時間と環境が必要だ。

しかし現状では、膨大な業務量の中で、教材研究や授業改善のための時間は後回しにされがちである。若手教員であれば、日々の授業をこなすだけで精一杯という状況も珍しくない。若手を救う余裕がベテランにもない。

結果として、授業準備は「前年度の資料の使い回し」になり、教材研究は「教科書をなぞるだけ」になり、新しい教育理論や実践を学ぶ機会も限られる。これでは、専門性が高まるどころか、維持することすら難しいだろう。

制度が示すもの

今回の「調整授業時数制度」は、こうした構造的な問題に対する一つの解決策として提示されている。でも、授業時数を削ってまで研修時間を生み出さなければならないという事実そのものが、現在のシステムの歪みでしょう。

授業時数の柔軟化自体は、学校の実態に応じた教育課程編成という点では意味があるかもしれない。しかし、それが「教員の研修時間確保」のための手段として用いられるとすれば、それは本質的な解決にはならないだろうと思う。

教員の専門性は、個人の努力だけで維持できるものではない。それを支える構造が必要なのであるけど……さて…。

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