ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

生成AIとの付き合い方で問われるのは「結果」ではなく「責任」である

生成AIが教育現場に入ってきて、自分たちはどう向き合うべきか。

この問いに対して、多くの議論が「どう使うか」「何ができるか」に集中している。

だけど、実は大切なのは別のところにもあるのではないか。

生成AIを教育で活用する際、自分たちが本当に問われるべきは「AIを使って何を生み出したか」ではなく、「AIを使った責任をどう取るか」なのだと思う。

たとえば、AIが生成した文章をそのまま提出する生徒がいたとする。

従来なら「それはズルだ」と叱る人が多い。でも、問題設定をそこに置いていて解決になるかというと、悩ましい。

むしろ、今後の社会での活用の方向性を考えていくと、その生徒がAIが出力した内容について「自分の言葉として責任を持てるか」を問われているのであるような気がする。

AIは便利だけど、便利であることと、その結果に責任を持てることかは別の話である。

「採用・不採用」の説明責任

具体的な授業実践として、こんな方法があってもいいかもしれない。

生徒にレポートや作文の下書きをAIに生成させる。

その後、生徒は以下を説明する:

  • AIの出力のうち、どの部分を採用したか
  • どの部分を捨てたか
  • なぜそう判断したか

この一連のプロセスは、もうたぶん色々なところで言われていることだけど、地味で面倒だから効くんだと思う。

AIに丸投げして終わりではなく、「AIの提案を吟味し、自分の判断で取捨選択する」という行為そのものは非常に面倒なわけだけど、こういう面倒さを引き受けるべきじゃないかな。

まあ、実際には「全部そのまま使いました」という生徒も出てくるだろう。でも、それでいいのである。それならそれで、「全部そのまま使った理由」を説明させることで、その生徒が何を考えて(あるいは考えずに)その選択をしたのかが可視化される。

そういう確かめの意識をまずは持てるかが大切になるのではないかと思っている。

「最終確認者」としての教員

校務においても同じである。

たとえば、保護者向けの文書や学年通信をAIに下書きさせることは、効率化として有効だろう。でもそれを保護者に出すかは自分の責任である。

生成AIがマス化してきているので、確認の部分がずいぶんとハードルが低くなっているような気配を感じる。

ここで誤解してほしくないのは、これは「AIがダメ」という話ではないということだ。むしろ、AIを道具として使いこなすために、「最終的な判断と責任は人間が持つ」という線引きを明確にしておく、という話なのである。そして、そのハードルを下げない方がいいということなのだ。

生成AIは確かに強力な道具だ。でも、道具は使う人間次第である。

現状、いやなニュースの方が多い。

「何を生み出したか」よりも「どう責任を取るか」に焦点を当てた教育実践はもしかしたら必要になるのかもしれない。

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