ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

授業時数の削減に思う――時間の制約と向き合うこと

文科省の調査によると、標準授業時数を大幅に上回る教育課程を組む公立小・中学校が減少傾向にあるという。中学2年で言えば、標準1015時間に対して1086時間以上の授業を組んでいた学校が、昨年度より12.7ポイント減って2.5%にまで減った。小学校でも同様の傾向が見られるとのことだ。

この数字をどう受け止めるか。

「時間のゴリ押し」からの脱却

自分はこのニュースを、悪いことだとは思わない。むしろ、ようやく現実的な方向に動き始めたのではないかと感じている。

授業時数を標準より大幅に増やす、つまり「時間のゴリ押し」によって教育の質を担保しようとする発想は、長時間労働で成果を出そうとする働き方改革以前の価値観と通じるものがある。

もちろん、子どもたちの学びを丁寧に保障したいという現場の思いは理解できる。でも、時間を増やせば増やすほど良い教育ができるという考えは、教員の疲弊を招き、結果的に授業の質を下げることにもつながりかねない。

時間をかければいい授業ができる…というのはどうなんでしょうね。

制約の中で考える力

大切なのは、限られた時間の中で何ができるかを考える力だろう。

自分は国語の授業を組み立てるとき、常に「この単元でどこまでやるか」という線引きを意識している。あれもこれもと詰め込みたくなる気持ちはあるが、狙いや領域がブレるほど授業の質は下がる気がしている。

何を削り、何を残すか。何を深く扱い、何を軽く触れる程度にするか。そうした取捨選択の連続こそが、授業デザインの核心だと思う。

 

 

標準時数という「枠」は、ある意味では制約だ。

しかし制約があるからこそ、私たちは優先順位を考え、本質的な学びに焦点を当てることができる。時間が無限にあるという前提で授業を組めば、かえって焦点がぼやけ、何を学んだのか分からない授業になってしまう…ということは、実はよくあることなのではないだろうか。

つまりは、制約と誓約である。

 

 

つまり…?

 

時間意識の欠如という病

ただし、ここで注意しなければならないことがある。授業時数を標準に近づけることは良いとして、それが単に「時間意識の欠如」を放置したままでいいということにはならない、ということだ。

学校現場では、会議が予定時刻を大幅に超過したり、あまり人の時間に関心がないせいか、時間管理がルーズになる…これは学校特有の、あまり健全とは言えない。

民間企業であれば、会議は定刻で終わらせることが基本だし、業務の効率化は常に求められる。もちろん学校と企業では性質が異なるが、時間を大切にするという意識まで捨てていいということにはならないだろう。

授業時数を減らしていくなら、同時に「限られた時間の中で最大の成果を出す」という姿勢も育てていかなければならない。そうでなければ、時間が減ったことが単なる「やることを諦める理由」になってしまう。

時間と質のバランスを

自分は会議の時間は守る。でも、教材研究に時間を計ることなんてしない。

授業研究についてはもはや自己満足だと思うので、人を巻き込めないなって思っている。

授業時数の削減という流れは、私たちに「時間という制約の中でどう教育を成り立たせるか」を考える機会にした方が良い。

まあ、言うは易く行うは難し、ではあるのだけど…

 

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