
拓殖大学が社会人向けリカレント教育プログラム「TAKUDAIリカレント」を開始するというニュースが流れてきた。
少子高齢化と技術革新を背景に、社会人の学び直し需要が高まっている…という説明は、もはや聞き慣れたものになっている。
大学がリカレント教育に乗り出す意味
このプログラムの特徴として挙げられているのは、「スキルアップにとどまらず、キャリア形成まで一気通貫でサポート」という点だ。学んで終わりではなく、その学びを次のキャリアステップにつなげる仕組みを組み込んでいるらしい。
複数の大学でリカレント教育を支援してきた企業との連携というのも興味深い。武庫川女子大学、関西外国語大学、京都女子大学など、すでに実績のある大学が名を連ねている。
大学単体ではなく、外部との協働で「学び直しの生態系」を作ろうとしているのだろう。
生涯学習の重要性については、もはや議論の余地がない。VUCAだのリスキリングだのと言われるまでもなく、一度学んだことで一生食べていける時代ではないことは、誰もが肌で感じているはずだ。
教科教育は「生涯学習」にどこまで貢献できるか
ただ、自分がいつも引っかかるのは、こうした社会人向けの学び直しプログラムと、学校教育(特に教科教育)との関係である。
本当のことを言えば、教科教育の段階で「生涯にわたって学び続ける力」を身につけさせたい。
国語科であれば、言葉を通じて思考し、他者と対話し、自分の考えを更新していく力。
そうした力が十分に育っていれば、社会に出てからも自律的に学び続けられるはずだ…と、理想論としては言える。
しかし、現実はどうだろうか。
教科教育の現場では、どうしても「教えるべき内容」に追われる。
特に入試が厄介だ。
その中で「学び方を学ぶ」「学ぶ意欲を育てる」といったメタ的な目標は、後回しにされがちだ(自戒を込めて書いている)。
さらに言えば、「生涯学習につながる学力」とは何かという問い自体が、実はそれほど明確ではない。
読解力?批判的思考力?情報リテラシー?どれも大切だとは思うが、それらを身につければ社会人になってからも学び続けられるとも限らないだろう。
「学ぶことの面白さ」を伝えられているか
自分が最近よく考えるのは、もっと素朴なことだ。教科教育を通じて、「学ぶことは面白い」という感覚を、どれだけの生徒に伝えられているだろうか。
リカレント教育に自発的に参加する社会人は、おそらく「学ぶことの価値」をどこかで実感している人たちだ。
仕事で必要に迫られて、というケースもあるだろうが、それでも「学べば何かが変わる」という期待がなければ、時間とお金をかけて学び直そうとは思わないだろう。
その「学びへの期待」の原体験は、どこで形成されるのか。学校教育がその役割を果たせていればいいのだけど…。
まあ、教科教育だけにその責任を負わせるのは酷だとも思う。
ただ、少なくとも「学校で学んだことは役に立たなかった」「勉強は苦痛だった」という記憶だけが残るような教育では、生涯学習への橋渡しは難しいのではないか。
教科教育の射程を自覚する
結局のところ、教科教育の「射程」には限界がある、ということを認めた上で、その限界の中で何ができるかを考えるしかないのだと思う。
国語科で言えば、「この教材を読んで○○を理解する」という目標と同時に、「言葉を通じて考えることの手応え」を生徒が感じられるような授業を、どうやって組み立てるか。
それは内容を教えることとは別の次元の問題であり、かつ、評価しにくい問題でもある。
リカレント教育の広がりを見ながら、自分たち教員は、その「射程の外」で起きていることにも目を向ける必要があるのだろう。
…そういう視点を持ちたいと思いつつ、明日も授業準備に追われるのである。




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