
千葉県のDXハイスクール域内横断支援事業として、ソフトバンクが高校生向けにAI活用人材育成プログラムを実施し、成果発表会を開催したというニュースを目にした。
高校生たちがAIの基礎知識を学び、実際にAIを活用した課題解決の企画を立案・発表するという取り組み。ごみ分別の課題や落とし物管理など、身近な問題にAIで挑む姿勢は素晴らしいと思う。こうした実践的な学びの機会が広がっていくこと自体は、歓迎すべきことなのだろう。
「参加できる生徒」と「参加できない生徒」
ただ、この記事を読みながら、自分の中でどうしても引っかかるものがあった。
この成果発表会に参加したのは「千葉県内の6校から集まった24名の高校生」である。おそらくは手を挙げた学校から、意欲のある生徒が選ばれて参加したのだろう。素晴らしい機会を得られた生徒たちは、きっとこの経験を糧にして、将来のキャリアにも活かしていくに違いない。
でも、この機会にアクセスできなかった生徒たちは、どうなるのだろう…と、この手のイベントにはいつも思う。
同じ千葉県内でも、こうしたプログラムの情報が届く学校とそうでない学校がある。仮に情報が届いたとしても、参加を後押しできる教員がいる学校とそうでない学校がある。生徒自身にしても、「やってみたい」と手を挙げられる子とそうでない子がいる。
こうして、じわじわと「経験の格差」が広がっていく。そしてその格差は、やがて進路の格差、所得の格差へとつながっていく可能性を孕んでいる。
私立高校の教員としては
自分は私立高校で教えている立場だ。私立高校には、こうした最先端の取り組みを積極的に導入し、生徒に先進的な学びの機会を提供することが期待されている側面がある。
それを仕事として、取り組むことに意味があると思っている。
でも、こうした「先進的な取り組みができる学校」と「そうでない学校」の差は、そのまま「その学校に通える家庭」と「通えない家庭」の差と重なっていないだろうか。
自分が「最先端」を追求すればするほど、結果的に教育格差の拡大に手を貸してしまっているのではないか…という気持ちがどこかにある。
この感覚から目を背けてはいけないと思う。
公教育はこの状況にどう向き合えばよいのだろうか。一応、断っておきますが、私立高校も公教育である。
正直なところ、明確な答えは自分にも見えていない。
自覚的であること
自分のような立場の人間にできることは、まず「自覚的であること」なのだろうと思う。
最先端の実践を追求すること。それ自体は悪いことではない。先駆的な取り組みを行わなければ、教育全体の底上げも起こらない。
しかし同時に、その実践が「持てる者」と「持たざる者」の差を広げる構造の中にあることを忘れてはならないように思う。
自分の実践を発信するとき、「すごいでしょう」で終わらせるのではなく、「ではこれをどうすればより多くの生徒に届けられるか」という気持ちは忘れないでいたい。




このブログについて
