
カルビーが「ポテトバッグ部」という食農教育プログラムを2026年春から本格運用するというプレスリリースが出ていた。
袋型の培養土でジャガイモを育て、収穫し、食べるところまでを約4ヶ月かけて体験するプログラムで、スライド教材や栽培説明動画、調理レシピなどの副教材も一式提供されるらしい。
企業発の教育プログラムが増えている
最近、こうした企業が学校向けに教材やプログラムを提供するケースが目に見えて増えてきたように感じる。
食育に限らず、情報モラルやプログラミング、金融教育など、あらゆる領域で企業が「出前授業」や「教材パッケージ」を用意してくれる時代である。
このこと自体を良い悪いと簡単に判断するつもりはない。
「答えがない」ことの苦しさ
ただ、一つ思うことがある。
教員というのは、答えが明確に用意されていないテーマを教材化したり、カリキュラムに落とし込んだり、授業として成立させたりすることに、ものすごくエネルギーを使う。
探究の文脈でこういう教材が提供されているのだと考えられるけれども、「これが正解です」と言い切れないものを子どもたちと一緒に考えていく授業は、準備段階から相当な負荷がかかるのだ。
だからこそ、企業が「教材一式をご用意しました、副教材もあります、動画もあります」と差し出してくれると、つい頼りたくなる。
それは現場の忙しさから考えると仕方ないところだ。
主体性なき活用の危うさ
ただ…それでも思うのは、こうしたプログラムを「使う」のと「頼る」のとでは、だいぶ意味が違うということだ。
企業が提供してくれるプログラムは、当然ながら企業の文脈で設計されている。それはブランディングの一環であったり、CSRであったり、あるいは将来の消費者育成であったりする。それ自体が悪いわけではないのだが、教員の側にそのプログラムを自分の教育実践の中でどう位置づけるかという主体性がなければ、結局は「やりました」で終わってしまう。
スライド教材をそのまま映して、動画を流して、レシピ通りに調理して…それだけで子どもに何が残るのかは、やはり教員の関わり方次第だろうと思う。
簡単には割り切れない
とはいえ、繰り返しになるが、こうしたプログラムの存在そのものを否定するつもりは全くない。学校現場のリソースが限られている中で、外部の力を借りること自体は現実的な選択肢だし。
結局のところ、外部のプログラムを活かすも殺すも、教員の主体性にかかっている…という、身も蓋もない話に行き着いてしまう。
そしてその主体性を発揮するためには、日々の業務に追われる中でも「自分はこの授業で何を大事にしたいのか」を問い続ける余裕が必要で、その余裕がなかなか確保できないという構造的な問題もある。
簡単に「教員がもっと主体的に」と言うだけでは片付かない話だなぁ…と思いつつ、それでもやはり、自分自身への戒めも込めて、与えられたものをそのまま使うだけにはなりたくないと思うのである。




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