2026年2月8日の衆院選が、私立大学の入試シーズンとまるごと被った。
このこと自体は国内でも大きな話題になっているが、面白いのは海外の高等教育系メディアでもこの「衝突」が記事になっていることだ。
AcademicJobsという海外の大学求人・高等教育ニュースサイトが、この問題をかなり詳しく取り上げている。選挙運動の「街宣車(gaisensha)」の騒音が入試に及ぼす影響、共通テストから私大個別試験に至るプロセス、そして「浪人(ronin)」という概念まで丁寧に解説した記事だ。
二つの「当たり前」がぶつかる
自分がこの記事を読んで感じたのは、日本国内では当たり前すぎて見えにくくなっている二つの問題が、海外の視点からはどちらもかなり奇異に映っているらしいということだ。
一つは、選挙運動のあり方。
記事では、選挙カーによる大音量の街宣活動が戦後の識字率が低かった時代の名残であること、EUのように試験会場付近での騒音規制(デシベル上限)が存在しないことが指摘されている。
もう一つは、受験そのものの重みだ。記事は、日本の入試が「credential-oriented society(学歴重視社会)」と結びついていること、不合格なら「ronin(浪人)」として一年を過ごすプレッシャーがあること、試験中の騒音がコルチゾール上昇を通じて記憶想起を阻害しうること…と、かなり詳細に描いている。
自分たちにとって「受験は人生の一大事」も「選挙カーはうるさい」もあまりに日常的な感覚だが、それが一つの記事の中で紹介されているのを見ると、なんとも不思議な気分になる。
「仕方がない」で済ませてきたもの
海外の目を通して見ると、問題の本質がくっきり浮かび上がってくる。選挙カーの騒音問題も、入試日程の硬直性も、どちらも「仕方がない」で長年やり過ごしてきたものだ。
駒澤大学の関係者が「日程変更は難しい。候補者に配慮をお願いするしかない」とコメントしているのは、まさに象徴的だろう。制度を変えるのではなく、善意に頼る。これは教育現場でも見慣れた光景である。
選挙運動のあり方そのものが問い直されてもいい時期だろうと思う。
「外から見る」ことの価値
こうした海外メディアの記事に触れることの意味は、「日本はおかしい」と自虐することではない。自分たちが無意識に受け入れている制度や慣習を相対化する視点を得ることだ。
生徒たちに「情報を批判的に読む」ことを教える国語科の授業でも、こうした「外からの視点」を取り入れることには意味があるだろうと思う。
同じ出来事でも、書き手の立ち位置が変われば、焦点も問題意識もまるで変わる。それを体感することは、メディアリテラシーの実践そのものだ。
選挙と受験がぶつかったこの騒動、海外からは「なぜそうなっているのか」と不思議がられている。自分たちも「なぜこうなっているのか」を改めて問い直してみるいい機会なのかもしれない。




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