
明光ネットワークジャパンの調査結果が目に留まった。
教育費が前年より増えた家庭が6割、そして8割の家庭が物価高でも教育費は「削りにくい」と回答しているという。この「削りにくい」という言葉の重さを考えずにはいられない。
教育費が「削りにくい」という回答には、複雑な感情が渦巻いている。
それは単に「教育は大切だから」という理念的な話ではなくて、現実問題として学校教育だけでは不十分だと感じている保護者が多いということの表れなのだろう。
塾や習い事、部活動の遠征費、修学旅行費、そして大学進学を見据えた準備…。
削りたくても削れない。削ることが子どもの将来の選択肢を狭めることに直結すると感じているからだ。
でも、ここで問わなければならないのは、「なぜこれほどまでに教育費の負担が家庭に集中しているのか」という点である。
「受益者負担」という考え方の限界
日本の公的な教育支出がOECD諸国と比較して相対的に少ないことは、以前から指摘されている。そうした中で持ち出されるのが「受益者負担」という考え方だ。教育を受ける本人やその家族が利益を得るのだから、相応の負担をすべきだ、と。
まあ、理屈としてはわかる。でも、この考え方は少子化が進む現代の日本において、本当に妥当なのだろうか…?
子どもの数が減り続けている今、次世代を担う若者への投資を減らすことは、社会全体の未来を削ることに他ならない。
少子化の時代において、子どもにお金を割かなかったら、一体どこに投資をするというのだろうか。
教育への公的投資は、単なる「福祉」ではない。それは社会の持続可能性への投資である。
しかも、家庭の経済状況によって教育機会に格差が生じることは、社会の分断を生む。どんな家庭に生まれても、その子どもが持つ可能性を最大限に伸ばせる環境を整えることは、公正な社会を維持するための最低限の条件ではないだろうか。
高校教員として日々生徒と接していると、家庭の経済状況が学びに与える影響を実感する場面は少なくない。
奨学金制度はあるものの、将来への負債を背負うことへの不安から、最初から選択肢を狭めてしまうケースもある。
教育の機会均等は理念としては美しいが、現実には家庭の経済力が大きく影響している。そして、その格差は固定化しやすい。
声を上げることの必要性
教育費が「削りにくい」という保護者の声は、同時に「削らざるを得ない状況に追い込まれたくない」という切実な願いでもある。でも、この状況を個々の家庭の努力だけで乗り越えようとすることには限界がある。
もっと声を上げていいのではないか、と自分は思う。教育への公的支出を増やすべきだと。「受益者負担」という言葉で片付けられてきた教育費の問題を、社会全体で議論すべきだと。
少子化が進む今だからこそ、一人ひとりの子どもへの投資の重要性は増している。それは単に個々の家庭の利益ではなく、社会全体の未来への投資なのだから。
教育は「コスト」ではなく「投資」である。そしてその投資のリターンは、子ども個人だけでなく、社会全体が受け取るものだ。この認識を、もっと多くの人と共有していきたいところである。




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