
2月23日、広島で性教育セミナーが開かれたというニュースを見た。
産婦人科医の河野美代子さんが登壇し、約130人の参加者を前に性教育の歴史や性感染症の事例について語ったという。
その中で紹介されたデータが重い。
2021年度、14歳以下の人工中絶は125件。妊娠した女子中高生の受診もあり、相手として最も多いのは「社会人」だという。
自分はこのニュースを読みながら、しばらく考え込んでしまった。
男性教員として、これを語ることの難しさ
正直に言うと性教育は自分にとって非常に語りにくいテーマのひとつだ。
国語の教員である自分の立場からすると、直接担当する授業の領域でもない。しかし、それ以上に「男性教員が性について語ること」に「無理だ」という抵抗を強く感じている。
だから、こういうニュースを見るたびに「専門家に任せたい」という逃げ道に向かいたくなる自分がいるのも確かだ。
でも、それでいいのか、という問いがずっとある。
「寝た子を起こすな」という構えの正体
日本の性教育をめぐる議論は、どうも出発点が「どこまで教えるか」の線引きから始まることが多い気がする。
河野さんのこの言葉は、そうした構えに対するはっきりとした反論だろうと思う。
「知れば知るほど行動は慎重になっていく」
これは感覚的に言っているわけではなく、現場で妊娠した中高生と向き合い続けてきた産婦人科医の言葉として重みがある。
知識がないから無防備になるのであって、知ることが行動を抑制するのだ——というのは、裏を返せば「寝た子を起こすな」論への直接的な批判になっている。
「知識が行動と結びついていない」という指摘
記事の中で河野さんはこうも言っている。「自分の行動と結びついた力としての知識になっていない。これで妊娠すると捉えきれていない」と。
ここが本質的な問いだと思う。知っているか知らないかではなく、知識が「自分ごと」として機能しているかどうか。
これは性教育に限らず、情報リテラシー教育や、あるいは国語の授業での読解でも同じ構造を持っている。
知識が文脈から切り離されたまま与えられても、行動を変えるレベルには届かない。
とはいえ、学校教育の中でそれを実現するのが容易でないことも確かだ。
それでも「語ること」から逃げ続けていいのか
専門家だけが語り、教員は黙って見守るという構図では変わらないのだろう、おそらく。
自分が性教育を直接担当することはないかもしれない。
ただ、日常の中で生徒が性や身体についての疑問や不安を口にしたとき、「それは保健の先生に聞いて」と押し付けるだけでいいのかという問いは、やはり持ち続けなければならないと思う。




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