
文科省が「学校教育情報化推進計画」の見直しにあたって、不登校の児童・生徒への学習支援にICTを活用する学校の割合を令和8年度中に100%にするという目標を掲げたという報道があった。
現状は小・中学校ともに80%未満とのことなので、残りの20%を埋めにいくという話である。
理屈としてはわかる
不登校支援においてICTを活用するという方向性そのものは、自分も理解できる。「誰も取りこぼさない」という理念に立てば、学校に足を運べない子どもに対して、遠隔でもつながれる手段を用意しておくことには意味がある。
物理的に教室に来られないという状況に対して、ICTが一つの回路を開くことは確かだろう。
その意味で、まだ活用できていない学校があるのなら、環境を整えていくこと自体は必要なことだと思う。
ただ、自分がどうしても引っかかるのは、これが「100%」という数値目標として示されているという点である。
教育施策に限った話ではないが、数値目標を掲げた瞬間に、その数値を達成すること自体が目的化するという現象は、これまで何度も繰り返されてきた。
100%という数字が降りてくれば、現場は「とにかく使っている状態にしなければならない」という圧力にさらされる。そのとき、「その子にとってICTでの支援が本当に適切か」という問いは、後回しにされがちなのである。
不登校の背景は一人ひとり異なる。
ICTでつながることがプラスに働く子もいれば、画面越しの接続すら負担になる子もいるだろう。
「支援にICTを活用している」という状態が何を指すのか、その中身が問われないまま数字だけが積み上がっていくとしたら、それは支援と呼べるのだろうか。
形式的な「活用」が免罪符になる怖さ
自分が最も懸念しているのは、ICTを形式的に導入しているということ自体が、「支援している」という証拠として機能してしまうことである。
「ICTで対応しています」という一言が、それ以上踏み込んだ支援の検討を打ち止めにしてしまう可能性がある。
本来であれば、ICTを入口にしつつも、家庭訪問や関係機関との連携、あるいはその子自身のペースに合わせた柔軟な対応が必要なはずだ。ところが「ICTで支援済み」というラベルが貼られた瞬間に、そこから先が見えなくなる…ということが起きないと言い切れるだろうか。
不登校支援の本質は、ICTを使うか使わないかではなく、目の前の子どもに対してどれだけ丁寧に向き合えるかという点にある。
手段の整備と、支援の質は、別の話なのである。「100%達成」の報告が上がったとき、その数字の裏側で何が起きているのか。
そこに目を向け続けることが、現場にいる人間の仕事なのだろうと思うのである。




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