
2026年の東大入試(国語)で、精神分析とオープンダイアローグの関係を論じたテキストが出題された。
出典の内容をここで詳しく解説するつもりはないが、読後に「権威」「内なる声」「対話」という三つの言葉が残る文章だった。
そして自分がずっと考えているのは、この三つの言葉が、精神医療の話にとどまらず、いまこの社会の至るところに突き刺さる問いを含んでいるということである。
誰の声で決めているのか
自分たちの社会は、あらゆる場面で「権威」に判断を委ねる構造を持っている。
そしてこの数年で急速に加わったのが、AIという新たな「権威」である。
生成AIに相談すれば、それらしい答えが返ってくる。
あらゆる問いに対して、もっともらしく、網羅的に、しかも瞬時に。便利だ。
でも、自分たちはいったい「誰の声」で物事を決めているのだろうか。
権威に判断を委ねること自体は、社会が機能するために不可欠な仕組みである。すべてを自分で判断しなければならない社会は、端的に言って地獄だ。
しかし、委ねることと、自分の内なる声を手放すことは違う。
医師の診断を受け入れるとしても、「でも自分の身体の感覚はこう言っている」という声を保持できるかどうか。専門家の提言に従うとしても、「本当にそうなのか」という違和感を殺さずにいられるかどうか。
AIの回答を採用するとしても、「なんとなく腑に落ちない」という感覚を手元に残せるかどうか。
この「内なる声」を保持する力が、いま、社会の至るところで試されている。
「内なる声」が消えていく回路
厄介なのは、現代社会には「内なる声」を消す回路がいくつも埋め込まれているということだ。
SNSのタイムラインは、自分の意見を持つ前に「正しい反応」のテンプレートを提供する。
ある事件が起きたとき、自分がどう感じるかを吟味する前に、大量のコメントや論評が流れ込んでくる。気づけば、自分の感想なのか他人の感想なのかわからない言葉で、自分の意見を語っている。
AIも同じ構造を持ちうる。
「これについてどう思えばいい?」とAIに尋ねる行為は、自分の内なる声が立ち上がる前に外部の権威に回答を求めているということだ。
返ってきた答えが妥当であればあるほど、「ああ、そういうことか」と納得し、自分の中にあったかもしれないもやもやは、言語化される前に消えていく。
これは、個人の怠慢の問題ではないと思う。社会の仕組みそのものが、「内なる声」を聴く前に「外の声」で埋めてしまう方向に加速しているのだ。
全員が同じ「正解」を共有している場での対話は対話ではないし、権威が最終的に「正しい答え」を決定する場での対話もまた、対話とは呼びがたい。
民主主義とは、本来そのような対話の空間を社会の意思決定の基盤に据えようとする試みだったはずだ。
しかし、現実には、SNSのエコーチェンバー、ポピュリズム、そしてAIによる「最適解」の提示が、この空間を少しずつ浸食しているように見える。
国語の時間にできること
国語の授業で文章を読むということは、他者の言葉を通じて、自分の中にまだなかった問いに出会うということだと思っている。
今回の出題文は精神医療の話だが、そこから「権威に判断を委ねるとはどういうことか」「自分の内なる声は本当に自分のものか」「対話が成立する条件とは何か」といった問いが立ち上がってくる。
この「転移」こそが、国語科で読むことの核心なのだろうと思う。
入試問題として問われているのは本文の正確な理解であり、それはもちろん大切なことだ。
けれど、本文を正確に読めた先に、「これは自分たちの社会の話でもあるのだ」という感覚が開かれるかどうか。
そこにこそ、高校の国語科が長い時間をかけて育てようとしているものがある。
なお、この文章はAIに清書させた文章である。




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