
中教審のワーキンググループが専修免許状の取得促進について議論しているらしい。
現職教員の研修を単位に含められる仕組みや、学校現場での臨床的な研究を必修とすることなどが話題に上がっているとのことだ。
専修免許があれば授業が回るのか
率直に言って、この方向性にはかなり疑問を感じる。
専修免許を持っているからといって、学校の業務がうまく回せるようになるわけではない。
校務分掌も、保護者対応も、専修免許の有無とは関係がない。授業にしても同様だ。専修免許を持っているから、そのまま良い授業ができるという話は、少なくとも自分の周囲では聞いたことがない。
もちろん、大学院での学びが全く無意味だと言いたいわけではない。
自分自身、ストレートマスターで修士号を取得して、そこで得た研究の視座は今の教育実践の土台になっている。しかし、それは「専修免許を持っていること」が役立っているのではなく、「修士論文を書いた経験」が役立っているのだ。
この区別は重要だと思う。
修士号「相当」の危うさ
現場の経験や研修の積み重ねで専修免許を認めるという発想には、「修士号相当」という言葉の曖昧さが含まれている。
まあ、ちゃんとWGの議論を追いかけたわけではなく、記事から読み取れることだけで思いついたことを書いているので、ちゃんと議事録をおいかければ全然ちがうことを言っているかもしれない。(そこまで厳密に議論を追いかけたいわけでもないので、戯言として聞いてもらえれば…)
修士論文を書くという行為は、一つの問いを立て、先行研究を整理し、方法論を設計し、データを集めて分析し、考察を重ねて結論を導くという、知的な営みの総体である。
それは数十時間の研修を積み重ねることとは質的に異なる。
自分がストレートマスターとして修士論文に取り組んだ経験から言えば、アカデミックな作法の一つ一つが教員としての見通しを持つための土台であり、自分の観を磨くための契機であった。
研修のように与えられた課題をこなすのではなく、自分で問いを立てて自分で答えを探す。その過程にこそ意味があったのだ。
中途半端な研修の寄せ集め(失礼)で専修免許を認めるのは、現状でもそこまで高いとは言えない専修免許の価値をさらに損なうことにならないだろうか。
本当の問題は「余裕のなさ」ではないか
自分が本質的に問題だと感じるのは、もっと手前のところにある。
現場の教員が大学院に通って修士論文を書こうとすると、それは「追い込まれるようなスタイル」にならざるを得ないのが現状だ。
日中は授業と校務に追われ、夜や休日にゼミに出て論文を書く。
あるいは派遣研修の枠を使って大学院に行くにしても、その間の人員補充は十分ではなく、職場に負い目を感じながらの研究になりがちだ。
つまり、問題の核心は「専修免許の取得要件をどう緩和するか」ではなく、「教員が研究や研修に取り組む余力をどう確保するか」なのではないだろうか。
きちんとした一般的な教育研究科(あるいはそれに相当する場)で、腰を据えて修士論文を書く。
そのための時間的・制度的な余裕を現場の教員に保障する。そちらの方がよほど意味のある施策だろうと思う。
「手軽さ」で専門性は育たない
取得要件を緩和して専修免許を取りやすくすることは、一見すると現場に優しい施策に見える。しかし、その「手軽さ」は、教員の専門性を本当に高めることにつながるのだろうか。
自分は、教員の専門性向上を否定したいのではない。
むしろ逆だ。だからこそ、「取得しやすさ」ではなく「学びの質」に目を向けてほしいと思う。研修の単位換算という発想は、教員の学びを「量」で測ろうとする姿勢の延長にあるように見えてしまう。
現場の教員が余力を持って、自分の実践を理論と往復させながら深く考える時間を確保できること。
それが実現すれば、免許の種類など関係なく、教員の専門性は自ずと高まっていくはずだ。
制度をいじる前に、まず現場の余白を確保する。
そちらの議論のほうが先ではないだろうかと思うのである。




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