ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

ハーバードでも「答えはない」という

東洋経済education×ICTに、長崎の公立高校英語教員がハーバード教育大学院でAI×教育を学んでいるレポート記事が掲載されていた(上村洸貴氏、2026年3月15日)。

toyokeizai.net

留学約6ヶ月時点での率直な所感として、明確な答えを期待して渡米したが、ハーバードにもMITにもまだ正解は存在しなかった、という趣旨の内容である。

既視感のある論点、しかし

記事で取り上げられている論点そのものは、国内でAI×教育に取り組んできた先生にとっては馴染み深いものが多い。

成果物ではなくプロセスを重視すべきだという話。

AIは教育の問題を新たに作り出したのではなく、従来からあった構造的な課題を表面化させたにすぎないという見方。

いずれも、ここ数年の国内の議論で繰り返し語られてきたテーマである。

だが、この記事の読みどころはそこではないと自分は考えている。

注目すべきは、世界のトップ大学の教授陣がいまだに手探りで試行錯誤を重ねているという報告の方だ。

記事によれば、MITのカンファレンスに参加しても、提示されたのは明快な処方箋ではなく、学習理論や教授法の重要性がこれまで以上に高まっているという共通認識だったという。

さらに印象的だったのは、MITにおいてもAI活用に前向きではない教員が一定数存在し、大学としてはトップダウンで強制するのではなく、草の根的なコミュニティで成功事例も失敗事例も共有しながら浸透を図っているという話である。

この話を読んで、既視感を覚えた人は少なくないだろう。

日本の学校現場で日常的に目にする風景とほぼ同じ構図なのだ。一部の教員が先行して実践し、多数派は慎重に様子を見る。

上からの号令だけでは動かないから、横のつながりで広げていく。

世界最高峰の大学と、自分たちの日々の現場が、同じ地点に立っている。この事実は、悲観的に捉えるよりも、むしろ正直な現在地の確認として受け止めた方がよいだろうと思う。

波及はゆっくり、しかし確実に

海外の一流大学でこうした変化が本格的に進行しているということは、今後、社会の中にじわじわと変化がもたらされていくことを意味するのだろう。

ハーバードやMITで学んだ人々が世界各地に散り、それぞれの持ち場で教育観を更新していく。その波は、遅かれ早かれ日本の教育現場にも届く。

記事中で紹介されていた教授の指摘、すなわち「学生がAIを使うのは怠惰の問題ではなく、成果物だけを評価してきた教育文化の帰結だ」という視点は、英語教育に限った話ではない。

国語科でも事情は同じである。提出物を出すことと学ぶこととを同一視する構造を、自分たちがどれだけ無自覚に再生産してきたか。生成AIの登場は、その問いを否応なく突きつけてくる。

自分自身、論理国語の授業でAIを使った実践を重ねる中で、「書かせること」が目的化していないかと問い直す場面が増えた。

書くという行為の中で何が起きているのか、そのプロセスにこそ目を向けなければならないという認識は、海の向こうとこちらとで奇妙なほど一致しているのである。

正解の不在が意味するもの

世界のどこにもまだ正解がないということは、見方を変えれば、現場の一つひとつの実践が答えを形作っていく途上にあるということだ。

トップ大学の研究者も、日本の一教員も、同じ問いの前に立っている。

華々しい解決策が提示されることを期待する段階は、おそらくもう過ぎている。地味な試行錯誤の積み重ねだけが、次の風景を作っていく。自分もまた、日々の授業の中でその手触りを確かめ続けていくしかないのだろう。

 

Copyright © 2023 ならずものになろう All rights reserved.